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イエスの風 No,71

 梅雨空が続いて、何だか疲れてしまいますね。あまり安心出来るニュースが少ないように感じる今日この頃…。どうか、神様があなたの心と身体を支え、守って下さいますように。そして、互いに、優しい心で励まし合うことが出来ますように。祝福を祈ります。


 マタイによる福音11章25~30節「わたしのもとに来なさい」


 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」

今日、主イエスの声が響いている。今、主イエスがあなたを招いている。私たちは今、主イエスに招かれてここに居る。主イエスは、私たちをこう呼ぶ。「疲れた者、重荷を負う者」

私たちは、知らない間に、沢山の重荷を背負わされている。人から負わされたもの、自分から負ったもの、色んな重荷が…。そして、重荷を負った私たちに向かって声が響く。「休むな。怠けるな。まだ足りない…。このままではいけない。」誰かが私を評価しようとしている。私が、私を裁く…。私たちは、人を評価し、自分を裁く者になっている。私たちの声が、私たちを追い立てて、不安を生み、疲れを招く。余りにも誰かの評価が気になり、自分を裁く声が強くなり過ぎると、恐れのあまり何も出来なくなってしまう…。

 「休ませてあげよう。あなたがたは安らぎを得る。」主イエスの声が響いている。休み、安息は、聖書が物語る重要なテーマの一つ。神を離れた人間が失ったもの。そして、神が再び私たちに与えようとしているもの。私たちは、安息を失っている。欲望に追い立てられ、休むことが出来なくなり、疲れ果て、恐れに支配されている。魂は、傷つき、飢え渇き、頑なになり、愛することが出来なくなっている…。

 神は、私たちに休みを与えようとしている。安息のリズムを取り戻すように招く。働くことと休むことのバランスを取り戻すように…。本当の安息を味わう時、私たちは働くことが喜びになり、愛の業に変わる。神は、私たちに休みを与え、働く喜びを味わい、働くことが愛の業であることに気付かせようとしている。本来、働くことは、愛することなのだ…。

 「だれでもわたしのもとに来なさい。」主イエスが呼んでいる。「わたしのもとに来なさい。休ませてあげる。」主イエスのもとに行くことが休みなのだ。何かをすることではない。むしろ何もしないこと。それは、眠ることに似ている。全てを任せ、委ねきること…。とにかく、主イエスのもとに行くのだ。「主よ。私はあなたの御許に参りました。」そう言って、身を委ねる…。主イエスのまなざしの前に身を置くのだ。ただ、黙って、全てを手放して…。急がないで、静かに、主イエスの御前にとどまるのだ。主イエスの御前にとどまること、それは、私たちの祈り、礼拝のひととき…。

 すると、主イエスの声が聞こえる。「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしのくびきを負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。」主イエスは、柔らかい心、人の評価に囚われず、誰をも裁かず、追い立てず、優しく、人を思いやる心を持っている。魂に安らぎを持っている。主イエスは、「わたしと一緒に生きよう。わたしと繋がって、一緒に歩こう。わたしを真似て生きて御覧。」と言われる。主イエスは、私たちと繋がるためにこの世界に来られた。追い立てられるこの世界で、私たちと一緒に歩いて下さっている。今日、ここで…。

 私たちは、色んな声に惑わされる。誰かの評価が私たちを振り回す。私たちを追い立てる声が、私たちを安息の神から引き離す…。安息のリズムは壊され、私たちは休むことを忘れ、働く喜びを失ってしまった。神から離れた私たちの魂は、安らぎを失い、愛の泉は枯れ、苛立ち疲れ果て、自分を責め、隣人を傷つけている…。

 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」

主イエスの声は、今ここに響いている。主イエスは今日、私たちを呼んでいる。

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