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イエスの風 No,46

更新日:2019年12月7日


 先週、東山魁夷生誕110周年の展覧会を見に出かけました。言葉にならない感動を味わい、本当に幸せな時間を過ごしました。描かれた風景は、静けさがあり、しかし、力強く、迫る何かを感じます。彼が作品を描くときに込めた愛と祈りを感じたように思いました。来場者の中に、会場を去りがたく、作品の前に留まる人たちがいました。私もそのひとりでした…。愛も祈りも目には見えません、けれど、それは存在し、確かに伝わるものなのですね。観てまわるのに、2時間以上もかかり、それでも足りませんでしたが、気力を使い果たしてしまったので、泣く泣く会場を後にしました。心を動かすほどの良いものに出会うことは、本当に幸いなことです。

 主がこう言われます。「あなたは、わたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。わたしは決して、あなたを離れず、またあなたを捨てない。安心して行きなさい。」

 今週、神様があなたに良いものとの出会いを備えて下さいますように。あなたに喜びがありますように。


マルコの福音書10章46~52節「わたしに何をしてほしいのか」

 「本当にやりたいことは何?」そう尋ねられて困ることがある…。自分が何を願い、求めていることは何か、それが本当に自分の心を満たし、生かすことになるのだろうか…。買い物をする前、ウインドウショッピング、カタログを眺めながら心を躍らせる。それを手に入れた時のことを想像しながら…。でも、それが手に入ったのも束の間、心はすぐに別のものに移りゆき、渇くようになることがしばしばある。「私は一体何が欲しいのだろうか…。何が本当に自分の心を満たしてくれるのだろう。この心、魂を満たしてくれるのだろうか。」私たちは、自分が何を願い、求めているのか、求めるべきなのかが分からないでさ迷っています…。自分の事は、自分が一番良く分かっているはず…、そう思っているのに、案外自分の事を知らない。全然見えていない…。

 見えないと言うことは、大変なこと。だって見えないのですから…。今、見えている私たちは、見えないと言うことがあまり良く分かっていないでしょう。見えないと言うことを想像することも出来ない…。見えることは、本当に素晴らしい事。今、私たちの多くは見えている。見渡して欲しい。何が見えるだろう。どんなかたちが見える。どんな色をしている。とにかく見えるのです。見えることで、ただ見えると言うことで、当たり前だと思っているけれど、考えられないほど多くの恩恵を受けている…。

 「ダビデの子、イエス様。私をあわれんでください。」バルテマイが叫んだ。何度も叫んだ。イエス様が彼の近くを通った。イエス様は、エルサレムに向かっていた。最期の旅、もう数日も経たぬうちに、イエス様は捕らえられ、十字架につけられて殺される…。イエス様は、自分の死を悟り、死に向かって真っ直ぐエルサレムに歩みを進めていた。「ダビデの子、イエス様。私をあわれんでください。」バルテマイは、そのような中で叫んだ。周りは、イエス様の状況を感じていたのか、イエス様の歩みを止めないように、彼を黙らせようとした。「ダビデの子。私をあわれんでください。」ますます声を上げた…。黙ることが出来なかった。

 「私をあわれんで…」私たちの心の深い所には、言葉にも声にもならない渇き、叫びがある。魂が渇き、叫ぶ…。「どうしたら満足できるのか。安心出来るのか。愛されていることが分かるのか。自分が好きになれるのか。もっと良い人間になれるのか。どの進路を選んだら良いのか。…私をあわれんで…。」何度も、何度も繰り返し叫ぶ声が、私たちの中にある。誰にも止められない声が…。

 「イエスは立ち止まって…」イエス様は、バルテマイの声を聞いて立ち止まった。「あの人を呼んで来なさい。」イエス様は、立ち止まった。そして、彼を呼んだ。「来なさい。」私は、不思議に思う。イエス様は、どうして彼を呼んだのか…。自分から出向かなかったのか…。彼が自分の足で立って、イエス様の方に来るように言われた。「来なさい」人々は、それを聞いて「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたを呼んでおられる。」バルテマイは、躍り上がった。目の見えない人が躍り上がった。そして、自分の足で歩いて、イエス様のところにやって来た…。周りに助けられつつ、辿々しくだったかも知れない…。けれど、彼は自分の足で歩いて来た。

 「わたしに何をしてほしいのか。」(51)イエス様は、やって来た彼に言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」不思議な問いかけです。分かっていたはずです。想像がつくでしょう…。でも、あえてお尋ねになる。「わたしに何をしてほしいのか」そう、イエス様は私たちを呼ばれる。「来なさい」そして、私たちにお尋ねになる。「わたしに何をしてほしいのか」私たちの魂を目覚めさせる言葉…。「わたしに何をして欲しいのか」

 「先生、目が見えるようにしてください。」(51)バルテマイは、答えた。その答えは単純、率直。「目が見えるようにしてください」彼の心にある願い、浮かんで来た思いを告げた。心の内にある思いを言い表すこと、それは簡単なようで、難しいのです。私たちは、何と言って良いのか…分からない。迷う…、こんなこと言ってもいいのだろうか…と。でも、バルテマイは言われた。「心配しないでよい」だから、臆せずに言った。「目が見えるようにしてください」

 イエス様はお答えになりました。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」(52)イエス様の言葉は、不思議です。「見えるようになれ」ではなく、「さあ、行け。あなたの信仰があなたを救った。」イエス様が言葉を発すると、すぐに不思議なことが起こった。「すると、すぐに彼は見えるようになり、道を進むイエスについて行った。」(52)何が不思議なのか…、それは目が見えるようになることである以上に、「行け」と言われた彼が、道を進むイエス様について行くようになったのです。

 「道を進む…」イエス様は、十字架につけられるためにエルサレムに向かって歩いていた…。バルテマイは、イエス様について行くようになった。イエス様の弟子になった…。彼が願ったことは、目が見えるようになること、もちろんイエス様はそれに応えてくれた、けれど、彼が本当に得たもの、それはイエス様について行く信仰。イエス様の弟子になる、イエス様を慕う信仰…。

 バルテマイに信仰が生まれた。イエス様を信頼し、慕う信仰。イエス様の弟子となって生きる信仰。彼に信仰が与えられた。

 イエス様は、不思議なお方…。私たちの内にある様々な願いや渇きを通して、私たちをご自分の御許に呼ばれる。「来なさい」そして、心通わせるやり取りの中で言われる。「あなたの信仰があなたを救った」信仰をお与えになる。信仰、それは、イエス様の奇跡。私たちがイエス様を信じること、彼について行き、弟子となって生きること、それは、奇跡と呼ぶにふさわしい。盲人が見えるようになるに等しい奇跡。バルテマイの中に信仰が生まれ、イエス様と共に生きるいのちが始まった。この後、彼はイエス様の後について行き、見えるようになった目で、イエス様が捕らえられ、十字架につけられて死に、三日目によみがえられたことを見た。自分を御許に呼んで下さった方がどのような方かを知り、この方との出会いを物語るようになった…。

 イエス様は、今日、あなたの前で立ち止まっておられ、あなたを呼んでいる。

 「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたを呼んでいる。」

 イエス様は、あなたの心に語りかけている。「わたしに何をしてほしいのか。」今日、あなたに、イエス様の奇跡が起ころうとしている。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救いました。」イエス様が、あなたに信仰を与えて下さるのです。

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