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イエスの風 No.8

 バンクーバーは寒いです…。昨日は涼しさを通り越して、寒さを感じて、一枚ジャケットを買い足さなければならないことになりました。日本は溶けるような暑さだと聞きました。また、雨による被害が秋田や東北の方にあると聞き、心配しています。こちらは、時差があり日曜日の夜中です。日本は、夕方頃でしょうか?今日は、バンクーバーにあるチャーチ・オブ・オールネィションズと言う友人が牧会している聖公会の教会でお話しさせて頂けることになっています。牧師として説教が出来ると言うことは、本当に幸せなことです。 

 主イエスのいのちが、あなたの内に溢れますように。主がこう言われます。「あなたは、わたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。わたしは決してあなたを離れず、またあなたを捨てない。安心して行きなさい。」             

ヨハネの福音書9章1〜12節「神のわざがこの人に…」

 光に照らされると、色んなものが明らかになります。ハッキリと見えるようになるのです。でも、ハッキリ見えるのも善し悪しで、見たくないものまでも見えて来ます。私たちには、いつも善い面と悪い面が両方共存しています。それが混ざり合っていて、簡単には区別がつかないものです。いわゆる白と黒があり、さらには、それが混ざり合っているグレーな部分があるのです。いわゆる、善いか悪いか判らない…と言う部分です。  とかく私たちは、自分の悪い面に注目をしてしまいがちです。自分にどんな欠点や弱さがあるか…と言うことを気にするのです。それを何とか克服し、無くそうと努力をするのです。黒でもグレーでもなく、全て真っ白にしてしまわなければならないと考えているのです。この問題、この弱さを解決しなければ、自分は前には進めない…、自分は幸せになれない…と考えているのです。  けれど本当にそうなのだろうか…。自分が考えている問題、弱さ、それが解決したら…、本当にそうなるのだろうか。幸せになるのか、もう悩まないのか、前に進んで行くことが出来るのか、成功するのか…。それは誰にも分からないのです。  イエス様が立ち止まって、道ばたの何かに注目なさいました。その目の先には、一人の人が座っていました。物乞いをしていました。彼は生まれついて目の見えない人でした…。イエス様が、この人をご覧になったので、一緒に歩いていた弟子たちも立ち止まり、イエス様に質問を始めました。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」(2)  「どうしてこんなことが起こったのか…?。何が悪かったのだろうか?こんな苦しい思いをするのは誰のせいだ…?こんな目に遭う理由は何なのか?」私たちは、苦しみや不幸だと思えることを目の前にした時に、問いかけます。原因を探す、理由を探す。悪者を探し、罪を探すのです。そうやって苦しみを和らげ、そこから逃れようとするのです。  弟子たちにとって、生まれつき目の見えないこの人のことは、どんなふうに見えていたのだろうか…。それは、他人事、彼らにとっては現実のことと言うより、神学的命題の一つのように見えていた。自分の事としては考えられなかったようです。残念なことですが、ある意味仕方ないことです。彼らに出来ることはせいぜいそのくらいでした。人は、どうにも出来ない問題にぶつかるとき、しばしばこのような反応をしてしまうのです。  けれど、主イエス様は、彼らの質問にお答えになった。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。」(3)まるで、この目の見えない人を弁護するかのように、彼の側に立って言われたのです。イエス様の目は、目の見えないこの人を見ていました。その目は、彼を裁き、突き放すような目ではありませんでした。遠く離れた傍観者の目でもなかった。イエス様は、彼を友のように慈しみ、彼の側に立つ眼差しで、彼の中に誰も見出せなかった希望の光を見ていた。  イエス様には見えていたのです。「神のわざがこの人に現れる」イエス様は、目の見えないこの人に何かをしようとしておられた。「神のわざがこの人に現れる」何をしようとしていたのか。それは、イエス様がキリスト、メシヤ、救い主であることを現そうとしていた。イエス様がしようとしておられたことは、ただこの人を見えるようにすることではなかった…。もちろん、彼が見えるようになることはとても大切なことです。けれど、もっと大切なことがあった。イエス様は、彼の目だけを見えるようにすることではなく、彼の人生を変えようとしていた。彼の人生を御自分の光で照らし、彼がイエス様の光に照らされて、神の国の到来を告げる者、シロアム(遣わされた者)にされたのです。  イエス様の光に照らされて彼は変えられました。神の国の到来を告げる者、世の光に…。それは、一体どう言うことでしょう。彼は、苦しむ者の側に立つ者になった。自分と同じような境遇にある者の友となり、彼らの側に立ち励まし、支えて、「神のわざがこの人に現れる」と希望を告げる者になった。それは、決して簡単なことではありません。イエス様にある希望を語る者は、口先だけで安易に希望を語るのではありません。それが成るまで共に立ち続け、涙し、苦しみを共に担うのです。それが出来るのは、同じ境遇を歩む者だけなのです。  今日、主イエス様は、あなたの前に立ち止まって、あなたの側に立ち、こう言われるのです。「神のわざがこの人に現れる」イエス様は、あなたの人生を変えるのです。今日もそのために働いておられます。「わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」(5)とおっしゃいました。「その人はどこにいるのか」(12)主イエス様は、今どこにおられるのでしょうか。  私たちのためによみがえられた主イエス様は、今日ここに、あなたの側に立っておられます。「神のわざがこの人に現れる」こう言って、御自分の業を進めておられます。私たちは今日、共にこの胸にイエス様の声を響かせ、歩んで行きたいのです。

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