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執筆者の写真じょ〜じ

イエスの風 No.5

 今日は、愛知県稲沢市にある愛ホープチャペルの礼拝でお話しをします。昨日は、リトリートと称して岐阜県の根尾川に連れて行ってもらいました。とても静かな場所で、靄立ち込める川辺に立ち、せせらぎの音、小鳥の歌声を聴き、優しい風に包まれて過ごしました。リトリート、敢えて何もしないで、景色を眺め、食事をし…。ゆったりしていると、心の深い所から言葉が生まれてきます。本当に分かち合いたいことが、泉のように湧いて来ます。そうして生まれた言葉は、静かに流れ出て、私たちの心の渇きを癒し、潤して行くのですね。  今日も主イエス様の祝福がありますように。あなたの魂が潤され、周りの人たちの癒やしの泉となりますように。  主イエスのいのちが、あなたの内に溢れますように。主がこう言われます。「あなたは、わたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。わたしは決してあなたを離れず、またあなたを捨てない。安心して行きなさい。」

ルカの福音書22章1〜34節「わたしを覚えて…」

 人には必ず別れがやって来ます。どんなに親しくしていても、また敵対していても…。いつか、お互いに離ればなれになって行くのです。昔、「最後だとわかっていたなら」と言う詩が多くの人に読まれました。とても痛ましい事件が世界を震え上がらせた時、あっと言う間に世界中に広まり、読まれたのです。  今日が最期の日だと分かっていたら、あなたは、あなたの隣に居る人に、大切な人に何を語りますか。何をしますか…。そんな風に言われたら、本当に困ってしまいますね…。今日が最期の日だなんて言われたら、どうしたらいいのでしょう…。何を話したらいいのか…。何をしたらいいのでしょうか。  イエス様に最期の時が、刻一刻と迫っていたのです。イエス様を敵視する人たちは、彼を殺すことを願い、ついに決定的な機会を得ようとしていました。イエス様の弟子の一人が、サタンに心奪われて、裏切ろうとしていました。イエス様は殺され、弟子たちは裏切りとつまずきを経験し、散り散りになってしまおうとしていた…。イエス様と弟子たちに、大きな試練が襲いかかろうとしていたのです。  そのような中、イエス様は、弟子たちと食事会をしようと計画なさった…。イスラエルでは、過越の祭を祝う時期でした。それは、ユダヤの人々が最も大切にしている祭り。その祭りは、大切な家族や友人たちが共に集まり、神様が、自分たち民族にして下さったこと、イスラエルを神の民とするために、エジプトの奴隷であることから救い出し、約束された安住の地に導き出して下さったことを想い起こし、さらに、これから先、神様がしようとしておられること、救いの完成、自分たちが神の民とされ、世界が祝福を受けることを待ち望み、希望を告白し、祝うのです。過越の祭は、遠い過去の出来事を記念し、祝うのではありません。その時から始まり、現在進行中の神様の御業を覚えてお祝いする時なのです。彼らの過去から現在、そして未来に希望をつなぐために設けられていたのです。  イエス様は、食事会の席で自らがお招きになった弟子たちに向かってこう言われました。「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたといっしょに、この過越の食事をすることをどんなんに望んでいたことか。」(15)イエス様は、御自分が苦しみに遭うことをすでに知っておられました。それを知った上で、どうしても今、彼らと一緒にお祝いしたいと願われた。「どんなに望んでいたことか。」とイエス様はおっしゃった。イエス様は御自分が苦しみを受ける前に、是非一緒にお祝いしたいと言われたのです。イエス様は、お祝いしたかった…。  この食事のことを、私たちは、「最後の晩餐」と呼びます。それは、イエス様と弟子たちが過ごされた最期の夜の食事、別れの晩餐、そのような意味でしょうか…。でも、イエス様は、この食事を御自分の送別会にしようとは考えていなかった。別れを惜しみ、悲しむ時、感傷に浸る時にしようとは考えておられませんでした。お祝いしようとしておられたのです。この食事会は、お祝いでした。イスラエルと今目の前に居る弟子たちの過越、すなわち罪の赦しと解放、神の民とされたことを祝うために行われたのです。「あなたは救われた。あなたの罪は赦され、きよめられている。あなたは神の民とされた。」そのようにお祝いするために行われたのです。  イエス様は、弟子たちを励まそうとされました。そのために、この食事の席を設けられたのです。イエス様は、こうおっしゃいました。「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたといっしょに、この過越の食事をすることをどんなに望んでいたことか。」(15)イエス様は、御自分が苦しみを受けることだけを見ておられてこう言われたのではありません。イエス様が見ておられたのは、御自分が受ける苦しみ以上に、弟子たちが受ける苦しみを見ておられた。御自分が苦しみを受けることによって、それ以上に彼らが苦しみの中を通らなければならないことを知っておられた。弟子たちは、想像を越える苦しみを経験しなければなりませんでした(21~23、31~34、ユダの裏切り、ペテロのつまずき)。イエス様には、それが痛いほど分かりました。イエス様も弟子たちも、身と心が引き裂かれるような経験をしようとしていたのです。この夜、イエス様と弟子たちは、言いようもない苦しみを共にしていたのです。それ故、イエス様は、弟子たちに励ましが必要であることを切実に感じた。そして、この食事を共にすることを計画なさった。イエス様は、弟子たちを何とか励ましたかったのです。イエス様は、苦しみの先にあるものを見ておられました。イエス様は、ご自身と弟子たちが、この苦しみを乗り越えることが出来ると信じておられたのです。  イエス様はこの食事の席で、いくつかの励ましを彼らに語ります(16、18、28~30、32)。これらの言葉から、イエス様がどれだけ彼らのことを思っているのか、その内側に溢れる思いが伝わって来ます。イエス様は、彼らのことが大切でしょうがなかった…。本当に愛しておられた。それは、もう言葉では伝えきれないほどだった…。そして、イエス様は、そのような彼らへの思いを、一つの行為に込めて表されたのです。イエス様は、パンを取り、感謝をささげてから、裂いて弟子たちに与えて言われました。「これは、あなたがたに与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行いなさい。」(19)さらに、杯をも同じようにして、さらに弟子たちに言われたのです。「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。」(20)イエス様は、言葉で愛していると言うだけでは事足りず、それを一つの行為にして、お見せになったのです。それは、この後、御自分が歩まれる十字架への道、十字架でいのちをお捨てになることを象徴するものでした。  「わたしは、あなたたちのためにいのちを捨てる。このからだを裂き、血を流す。そうして、あなたたちに、わたしのいのち、赦し、きよめ、救いを与える。わたしは、あなたたちを神の子とする。わたしは、あなたたちを愛している。この苦しみに負けないように。それに呑み込まれてしまわないように祈っている。わたしは、あなたたちを信じている。あなたたちは、必ず立ち上がることが出来る。」  「わたしを覚えてこれを行いなさい。」イエス様は、弟子たちに向けて、パンと杯をもって迫られた。ご自身をパンと杯に込めて、それを弟子たちに差し出されたのです。そのようにして、イエス様と苦しみを共にする弟子たちを励まし、力づけられた。このパンを受け取り、杯を飲んだ弟子たちは、その時は分からなかったかも知れない。けれども、イエス様がよみがえられ、彼らがつまずきから立ち直った時、そのパンと杯を想い起こし、そこに込められたイエス様の愛、信仰の力強さに心震わせたのです。それ故に、彼らは、ずっと、集まる毎に、パンを裂き、杯を分かち合い、イエス様の愛を想い起こし、互いを励まし合ったのです。パンと杯を通して、イエス様を体験したのです。  今日、私たちは、ここにパンを裂き、杯を分かち合うのです。それは、私たちの励ましのため。イエス様は、今日ここにお立ちになり、私たちをお励ましになるのです。弟子たちが聞いた励ましのメッセージを、今ここで聞くことが出来るのです。    「わたしは、あなたたちのためにいのちを捨てた。このからだを裂き、血を流した。そうして、あなたたちに、わたしのいのち、赦し、きよめ、救いを与えた。わたしは、あなたたちを神の子とする。わたしは、あなたたちを愛している。この苦しみに負けないように。それに呑み込まれてしまわないように祈っている。わたしは、あなたたちを信じている。あなたたちは、必ず立ち上がることが出来る。」  さあ、イエス様のパンと杯、励ましをいただきましょう。

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