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イエスの風 No.31




 友だちが居るっていいものです。嫌な気持ちになったり、辛い思いをしたとき、話せる人、時間を惜しまずに聴いてくれる人が居る。話せるだけで、心が平和になるのです。聴いてもらうと、癒されるのです。祈ってもらうと、辛い中でも立ち上がる力、立ち向かう勇気が生まれるのです。友だちが居るって、神様が居るって言うことと同じくらいに神秘的なことだと思うのです。

 どうか、あなたに備えられた友だちの存在に目と心が開かれますように。

 主イエス・キリストのいのちが、あなたの内に満ち溢れますように。主がこう言われます。「あなたは、わたしの愛する子。わたしは、あなたを喜ぶ。わたしは、決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。安心して行きなさい。」

 祝福がありますように。


ルカの福音19章1~10節「今日、救いがこの家に来た」


 「今日、救いがこの家に来ました。」(9)主イエス様が、おっしゃる。今日、ここで…。玄関から物音がして、インターフォンが鳴り、主イエス様が入って来られる。そして、真顔で、真実を語る口調で、確信に満ちておっしゃる。「今日、救いがこの家に来た。」

今まで聞いたことのない言葉…。そんな声が、この家に響き渡るなんて、考えたこともない…。一体、どう言う意味なのか、本当なのか…。この散らかった家、外の人には言えない、見せられない色んな問題が潜み、一喜一憂するこの家に…。救いが来るのか。一体、何が起こるのだろう…。

 出会いは人生を変える。本当です。「そのときの出会いが人生を根底から変えることがある。よき出会いを。」(相田みつを)良い出会い、悪い出会い…、色々です。私たちは、今日まで、いろんな出会いを重ね、その人生を育んで来た。振り返れば、色んな人が見えて来る…。その人たちが、あなたを今のあなたにした…。そして、その逆も然りです。あなたも、あなたとの出会いも、誰かの人生の一部をかたちづくっている。「あなたにめぐり逢えて本当によかった。一人でもいい、心かえらそう言ってくれる人あれば。」(相田みつを)願わくば、この言葉のような人になりたい…。

 ザアカイという人がいた。彼は金持ちだった、でも周りから「罪人」と呼ばれていた…。職業柄、その生活故に、周りの人々、社会から外れ者、無き者と呼ばれていた。誰の役にも立たない、厄介者、かき乱す者と見なされていた。

「人の迷惑にならないように…」そう言われて私たちは育って来た。だから、誰かの迷惑になり、重荷となる、役に立たなくなることが恐い。懸命に周りと合わせて頑張る。けれど、いつ道を踏み外すか分からないと恐れる…。だから、色んな意味で、迷惑をかける人、外れた人を恐れ、「罪人」と呼ぶ、存在しない人、無き者にしてしまうのです。

 イエス様がエルサレムに向かって旅をしておられた。それは、十字架に向かう旅、人生最期の旅、いのちをささげるためにエルサレムに向かって旅をしていた(ルカ9:51)。エリコは、エルサレムに向かう最後の宿場町。イエス様は、死を目前にしつつ、エリコに入って行かれた。ある目的を持って…。

 エリコの町は、イエス様がやって来た事で、いつも以上に沸き立った。そんな中、ザアカイは、イエス様を見ようと立ち上がった。とにかく一目見よう…。けれど、彼は背が低く、多くの人が群がっていた故に、そのままでは観ることが出来なかった…。彼は、走って木に登った。木の上で、待ち構えた。イエス様が通り過ぎるのを観ようと…。ザアカイは、イエス様を観ようとした。けれど、会うつもりはなかった…。

 けれど、イエス様は、ザアカイの登った木を目指して歩いていた。イエス様には見えていた。彼が木に登ったのが。イエス様は、ザアカイを知っていた。ザアカイを捜し歩いていた。そして、ザアカイを目指し、イチジク桑の木の下に立った。木を見上げた。ザアカイを見上げた。ザアカイに会おうとなさった。  

 「ザアカイ。急いで降りてこい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしている。」(5)

耳を疑う言葉が響いた。そこに居た誰もが、言われた本人も決して想像することがなかった言葉…。ザアカイは、「罪人」、存在しない者と見なされ、誰も関わりを持たなかった…。彼が、名前を呼ばれるなんてことはなかった。この町に、彼を呼ぶ声が響いた。そして、信じられない言葉が聞こえて来たのです。

 私たちには名前がある。名が呼ばれるとき、その人は存在し、その人として生きるようになる。名が呼ばれることは、私たちの存在の証し。喜びと親しみを込めて呼ばれるのか、憎しみや蔑みをもって呼ばれるのかで、存在の意味が変わります。私たちは、親しく、喜びを持って呼ばれたい…。そうして、自分が居ることが、迷惑でなく、喜びであり、祝福であることを知りたい。

「ザアカイ。急いで降りてこい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしている。」イエス様がどのような心で彼の名を呼ばれたのか。「急いで降りてこい。あなたの家に泊まることにしている」それは、「今すぐに、わたしのそばに来て、ずっと一緒に居よう。」ということ。イエス様は、どうしても彼を、ご自分の許に招き、彼を友と呼びたかった…。けれど、それは大きな波紋を生むことになった。イエス様がザアカイを呼び、「今日、あなたの家に泊まることにしている」と言われた時、それを見ていた人々は呟いた。「あの人は罪人のところに行って客となった」ザアカイに起こったことを共に喜び、イエス様を称賛する人は誰もいなかった…。それどころか、イエス様は罪人の仲間と見なされ、罪人として扱われるようになった。イエス様の度重なるこのような言動は、多くの罪人を彼の許に引き寄せた。けれど、同時にそうではない人たちからの非難を集めた。自らを正しいとする人たちの反感と憎しみを引き起こして行った…。このザアカイに対する言動、「ザアカイ。急いで降りてこい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしている」この呼びかけが、イエス様を十字架への道に招き、導いて行ったのです。

 イエス様は、いのちをかけて、ザアカイを捜し、彼を見つけ出し、その名を呼ばれた。声をかけられた。「ザアカイ」と、その名を呼ぶ声には、イエス様のいのちがかかっていた。イエス様は、いのちがけで、罪人と呼ばれるザアカイを、自らの喜び、祝福と呼ばれた。イエス様は、ザアカイを「この人もアブラハムの子」と呼ばれた。アブラハムは、イスラエル民族の父祖。神様は彼を選び出し、この世界に祝福をもたらす者にすることを約束し、実現された…(創12:1~3他)。イエス様は、同胞から「罪人」と呼ばれたザアカイを「この人もアブラハムの子」すなわち、祝福を受け継ぐ子、祝福をもたらす子と呼んだ。主イエス様は、彼に言われた。「おまえは、周りに迷惑をかける者、要らない存在ではなく、人々に祝福をもたらす者だ。」イエス様が、彼と出会って下さった。イエス様が、彼を捜し、会いに来て下さった。そして、彼の存在、その名が変わった。「罪人」から「祝福をもたらす子」になった。

「今日、救いがこの家に来た。この人もアブラハムの子なのだから。」人が救われると言うことは、「罪人」から「祝福の子」になること。神様に「祝福の子」と呼ばれること。「主よ。ご覧下さい。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。だまし取った物は、4倍にして返します。」(8)ザアカイは、そう言い始めた…。これは、償いを越えた言葉。彼は、人を祝福する者になろうとした。イエス様は、彼を「この人もアブラハムの子」と呼んだ。彼は、その通りになろうとした。

「人の子は、失われた人を捜して救うために来た」(10)「失われた人」とは、誰か。イエス様の前に失われた人…。ザアカイは、「罪人」と呼ばれ確かに失われていた。しかし、ザアカイだけが失われた人ではなかった。イエス様にとって失われた人は、ザアカイだけではなく、彼の周りにいた人々…。ザアカイがその名を呼ばれ、受け入れられ、喜んでイエス様を迎えた時、呟き、イエス様を非難した人たち…。

 私たちは、イエス様は、誰のために十字架につかれたのか、誰がイエス様を十字架につけたのか…と問う。そして、それは罪人と呼ばれ、過ちを犯していたザアカイのため…と答える。それは、間違っていない。しかし、イエス様は、ザアカイのため、罪人と呼ばれる人、過ちを犯した人のためだけに死なれたのではない。いや、それ以上に、自らを義人と見なし、罪人ではないと考えていた人々、ザアカイの周りで呟いた人々、過ちを犯した者を無き者と見なし、主イエス様を罪人の仲間と呼んだ人たちのために十字架につかれた…。事実、イエス様を十字架につけた人は、自分は正しい、間違っていないと思っていた人々だった。彼らは、数日も経たないうちに、エルサレムでイエス様を十字架につけろと叫んだ…。イエス様は、ザアカイのため、彼の周りで呟いた全ての正しい人たち、「失われた人」のために十字架につかれた。しかし、よみがえられたのです。

「人の子は、失われた人を捜して救うために来た」今日、ここに居る私たちは、「失われた人」…。過ちを犯しても、犯さなくても…、イエス様の前に「失われた人」。イエス様は、「失われた人」を捜す。いのちをかけて、捜す、その名を、あなたの名を呼ばれる。「人の子は、失われた人を捜して救うために来た」

主イエス様は、今日ここに立って言われる。あなたの前に立って。あなたを捜す。あなたが何処に行こうとも、見つけ出して言われる。「今日、救いがこの家に来た。」

 これは、イエス様のいのちがかかった言葉。あなたは、イエス様に捜された人。見つけられた人。今日、イエス様があなたの救いとなって下さる。あなたの内にとどまり、あなたを「祝福の子」と呼び、あなたを新しく造り変えて下さる。あなたは、「祝福の子」。あなたは、祝福となるのです。あなたの家、仲間、会社、町の祝福になる。あなたが居る、今ここに神様は、祝福を始めて下さるのです。

 今日、主イエス様がここに来られました。イエス様の声が、聞こえるのです。

「今日、救いがこの家に来ました。」

 あなたの家に、あなたを通して主イエス様の声が響くのです。

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