イエスの風 No.30

 先週は、富士山の裾野にある修道院で行われた説教者の研修に出かけました。説教者は、聖書の言葉を届けるため、語る言葉を通して、今も生きておられるイエス様に出会って頂けるようにと、毎週生みの苦しみをしているのです。日毎労苦する者たちが、共に集まり、同じ聖書の物語を読み、黙想し、語り合いつつ、研鑽の時を持ちました。とても楽しく、心燃やされる一時でした。

 毎週日曜日はやって来ます。どうか、私たちの語る言葉を通して、イエス様と出会い、生きる力と希望を見出す人たちが起こされますように。

 「キリストのいのちが、あなたがたの内に豊かに溢れますように。主がこう言われます。『あなたは、わたしの愛する子。わたしは、あなたを喜ぶ。』『わたしは、決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。安心して行きなさい。』」


マルコの福音1章21~28節「主イエスの言葉によって」

 「いい言葉は、いい人生をつくる」(斎藤茂太著・成美文庫)というタイトルの本が目に留まりました。なかなかいいタイトルだと思いました。たかが言葉、されど言葉、私たちは毎日いろんな言葉を聞いて生きています。そして、その言葉によって人生がかたちづくられている。一言の言葉で生きる人も居れば、たった一言の言葉で死んでしまう人も居る…。言葉は生きて働く…、言葉には力がある。

 聖書が、言葉の大切さを説いているのです。「私たちはみな、多くの点で失敗するものです。もし、ことばで失敗しない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です。」(ヤコブ3:2)私たちは、自分の暮らし、身だしなみなどに心を配り、良い物にしようとする。同じように、私たちの口からどんな言葉を発するか、気にしたいものです。それが、私たちの人生を育み、かたちづくる。大袈裟だと言われてしまうかも知れないけれど、この世界を彩り、かたちづくるのです。それほど、私たちの言葉には意味があり、重い…。言葉は、神からの賜物。天から人に贈られ、委ねられたもの…。神は語られる、それ故、私たちも語るのです。

 イエス様は、神の子、キリストとして姿を現された時、何をさなったか…。イエス様は、人々の前に立ち、お語りになった。安息日に会堂に入って…。「聴け。イスラエル。」安息日、会堂は、聖書が朗読され、神の言葉、神の御声が響き渡る場所となった。その日、人々は会堂に神の言葉、神の御声を聴こうと集まっていた。イエス様は、そこで語られた。

「人々は、その教えに驚いた。それはイエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。」(22)人々は、イエス様の語る言葉に驚いた。何に驚いたのか…。「権威ある者のように教えられた」人々を驚かせたのは、イエス様が権威ある者のように教えられたからです。どう言うことでしょう…。「権威ある者のように…」それは、大声で、威圧的で、偉そうにと言うことではない。

「権威ある者のように…」それは、次に起こった出来事が物語っている…。その会堂に汚れた霊につかれた人が居て、イエス様に向かって叫んだ。「ナザレ人イエス。いったい私たちに何をしようというのです。あなたは私たちを滅ぼしに来たのでしょう。私はあなたがどなたか知っています。神の聖者です。」(23、24)汚れた霊につかれた人が居た。彼は、目に見えない汚れた霊に支配されていた。

 汚れた霊は、一体何をするのか…。人を支配し、神から引き離し、苦しめ、大切な人生を台無しにする…。その現れは様々…。汚れた霊の事は、遠い昔や、遠い未開の地での出来事ではない。今も、この国に働いていると思う。私たちの言葉の中に潜み、私たちを言葉によって支配しようとしていると思う。私たちは、いろんな言葉を聞いて生きている。それは、声になって聞こえることもあれば、様々な出来事を通して知らされる言葉として心に語りかけられることもある…。そして、そのような言葉に支配され、導かれている生きている。今、自分にどんな声が聞こえるだろか、どんな声に導かれているのか…。

 多くの人が、自分を呪う声、蔑む言葉によって縛られ、追い立てられ、神の愛や祝福を信じることが出来ずに日々を過ごしている。ちょっとした言葉に躓いて、傷つきなどして、人生を台無しにしようとしている…。

 私たちの人生は、私たちをお造りになった神の愛の内に導かれ、歩む、神の祝福言葉によってストーリーが綴られて行くもの。「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」と神はあなたに語る。「神に愛される子。祝福される者。」として生きるように、いのち授けられ、生まれた…。けれど、知らぬ間に、あなたの人生のストーリーが、汚れた霊の言葉によって、呪いのストーリーにすり替えられている。私の人生は、呪われた人生、滅びの人生だと思い込まされている…。一体、誰があなたの人生のストーリーを変えてしまったのか…。

 汚れた霊が叫んだ。「ナザレの人イエス。いったい私たちに何をしようというのです。あなたは私たちを滅ぼしに来たのでしょう。」(24)その時、イエス様は言われた。「黙れ。この人から出て行け。」(25)たちまち、汚れた霊は、その人から出て行ってしまった…。一言の言葉で汚れた霊を追い出してしまわれた。言葉で…。その一言で、汚れた霊につかれた人の人生が変わった。汚れた霊の言葉から解放された。呪いの人生から解き放たれ、神の祝福の人生に招き入れられた。たった一言の言葉で…。

「権威ある者のように…」それは、一言の言葉で、全てを変えてしまう。一言の言葉に力があった。それは、「光よあれ。」(創世記1:3)と言われ、光を存在させるようにしたお方の力。イエス様は、神の言葉、神の御声となって語られた。そして、イエス様を通して神がお語りになった。

 イエス様が、今日も語られる。神の御声を聴かせて下さる。主イエス様は、今日、私たちに向かって語られる。「黙れ。この人から出て行け。」今日、あなたのストーリーを神の祝福のストーリーにしようと。私たちは、毎日、言葉の闘いを繰り返している。目に見えない言葉の闘い。日々、私たちの目を神から引き離し、呪いと滅びを信じさせようとする悪しき者との闘いを経験している。けれど、主イエス様は、あなたを縛る悪しき者、滅びと呪いのストーリーを教え込もうとしている者に向かって叱って下さる。「黙れ。この人から出て行け。」

今日も、主イエス様の声が響き渡っているのです。「聞け。イスラエル。わたしを信じる神の民、神の子どもたちよ。」今日、イエス様の御声によって、あなたの人生のストーリーが、祝福のストーリーに変えられる。私たちは、私たちを縛る悪しき者の言葉が響き渡る世界に生き、その言葉に惑わされ、呪いの言葉にどっぷり浸かって生きて来た。あなたを呪う言葉に惑わされ、すっかり自分の呪いを信じさせられて生きて来た。

 今、主イエス様の言葉を聴きなさい。そして、悪しき者の言葉を捨ててしまいなさい。イエス様は、あなたの人生を、神に愛される子、祝福された者のストーリーにしようとしておられる。神の言葉を信じなさい。イエス様の言葉を聴きなさい。

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