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イエスの風 No.3

 今日は、朝からシオンの群れ中野教会の礼拝に招かれてお話しをさせて頂くことになっています。とても感謝なことですが、久しぶりに公の場で話すので、少々緊張します…。でも、そこの牧師先生は、気心知れるお友達なので、そこを訪ねることは、ちょっと嬉しいことでもあります。どうか、今日の聖日が心安まり、癒やされ、励ましと力を得ることが出来ますように。新しい1日もイエスの風が吹いていることに気付かされますように。  主イエスのいのちが、あなたの内に溢れますように。主がこう言われます。「あなたは、わたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。わたしは決してあなたを離れず、またあなたを捨てない。安心して行きなさい。」

ルカの福音書24章13〜35節「イエスに心燃やされて」  主イエス様は、よみがえられました。今も生きておられます。これこそ私たちの喜び、希望の源…。どんなに失望させられるようなことが起こっても、そこから立ち上がる力となる、そう信じています。私たちは、主イエス様の復活にかけているのです。このお方が今も生きておられることに…。私たちは、毎週、主イエス様がよみがえられたこと、よみがえられた主イエス様を祝うために集まっています。  今日も共に、主イエス様がよみがえられたこと、今も生きておられることを、喜び、祝いたい。是非ともそうしたい…。この一事に、共に心を合わせたい。このお方に心を向けたいのです。  けれど、主イエス様が見えなくなる時がある…。どうしてだろう…。私たちにとって救いであり、希望であるにも関わらず、イエス様が見えなくなり、共に居て下さることが分からなくなる…。そして、心は荒れて、刺々しくなってしまうのです。その魂に、砂を噛んでいるような虚しさが襲って来ます。目の前に起こることが余りにも辛くて、失望させられることが続き…、ここにはイエス様は居ない…そう思ってはいないだろうか…。  イエス様がよみがえられた日、二人の弟子がエルサレムから出て、エマオという村に向かっていました。女たちがイエス様がよみがえられたと言う知らせを伝えたけれど、それを聞かされた使徒たちは信じることが出来なかった…。二人も同じでした…。二人は戸惑いながら、弟子たちが集まっていたエルサレムから離れ、エマオに向かっていた…。もう、イエス様の弟子をやめようと思っていたのかも知れない…。けれども、やっぱり気になるのか、歩きながら、イエス様に関する一連の出来事、すなわち十字架の死のこと、そして女たちが伝えたよみがえりの知らせについて話し合っていたのです(14、15)。  するとそこにイエス様が現れた。いつの間にか、二人の弟子たちと一緒に歩き、彼らの話に加わって来られたのです。「歩きながら、ふたりで話し合っているその話は、何のことですか。」(17)けれど、二人にはそれがイエス様だと分からなかった。どうして分からなかったのだろうか…。イエス様の姿は見えていた、声も聞こえていたのに分からなかった…。本当に不思議なことです。そんなことあり得るのでしょうか…。イエス様が変わり果てた姿をしていたのだろうか…。そうではない。二人の目がさえぎられていた。それでイエス様が分からなかった…。二人の目は、さえぎられていた…。見ているのに、見えなかった。聞いているのに、聞こえなかった…。                 私たちは、このような二人の姿を見て、同情的に思います。イエス様の死が余りにも辛くて、ショックだったから仕方が無いだろう…と。二人の弟子たちは、そのようなことをイエス様に向かって話しているのです(19~24)。  けれど、私たちは、イエス様の言葉にはっとさせられます。「ああ、愚かな人たち。預言者の言ったすべてのことを信じない、心の鈍い人たち。キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光にはいるはずではなかったのですか。」(25、26)厳しい言葉です。イエス様が、二人に向かって、「愚かな人たち。心の鈍い人たち。」と責めておられる…。二人は、イエス様に叱られてしまった…。イエス様に叱られた。厳しい言葉を言われた…。この言葉は、私たちにとってもショックです。いつもは優しいと思っているイエス様に責められる…。私たちの弱さをご存知のイエス様が、「愚かな人たち。心の鈍い人たち。」とおっしゃる…。私たちは、言い訳したくなります。「だって、イエス様、仕方ないでしょ…。私たちは弱い人間なんだから…」でも、イエス様は容赦しません。「愚かな人たち。心の鈍い人たち。」どうしてでしょう…。どうして、こんなことを言われたのでしょうか。  イエス様は、目を覚まさせようとしておられた。二人は、エルサレムから、一緒に歩んで来た仲間に背を向け、弟子たちの集まりから離れて行こうとしていた…。けれど、イエス様は、引き戻そうとしておられたのです。御自分がいのちをかけた弟子たちが、御自分の許から離れようとしている。信じることをやめようとしている。弟子であることをやめようとしている。今までの生き方に戻ろうとしていたのです。イエス様は、目を覚まさせようとなさった。二人の目をさえぎっていたのは、不信仰、霊的な盲目だった…。彼らの信仰が死にかけていた…。それ故、イエス様は、彼らの魂を目覚めさせようとしたのです。  このイエス様の叱責の言葉をきっかけに、二人の内に変化が起こり始めました。二人は、その時のことを振り返ってこう言いました。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」(32)彼らの信仰が目覚め、心が燃え始めたのです。そして、ついに彼らの信仰がよみがえり、その目が開かれた…。  彼らがエマオの村に辿り着いた時、イエス様はまだ先に行こうとしておられる様子でした。しかし、二人が強いて引き止め、イエス様を自分たちの宿(家)に招いた。そして、一緒に食卓を囲み、イエス様がパンを取って祝福し、裂いて彼らの手に渡された時、二人の目が完全に開かれた。彼らは、今まで一緒に歩んで来た人がイエス様だと分かった(28~31)。イエス様が見えたのです。イエス様が一緒に居て下さることが分かったのです。イエス様が、彼らの信仰を目覚めさせ、よみがえらせて下さったのです。  「イエス様だっ!」けれど、彼らが気付いた時、イエス様は見えなくなられた…。本当に不思議なことです。どうしてイエス様は見えなくなられたのだろう…。私たちは思います。「イエス様は見えている方がいい。見えないから信じられないのではないか…。どうしてイエス様は見えないのか…。」しかし、イエス様の答えは、「わたしは、見える必要がない。信じるのなら、わたしの姿は見えなくてもいい…」これは、私たちにとって大きなチャレンジです。心細いような気もします、けれど、とても力強い答えでもあるのです。「イエス様は、見えなくても生きている。今、ここに居る。」私たちは、大胆にそう言うことが出来るのです。イエス様は、私たちにそう言わせようとしている…。  二人の弟子たちは、イエス様が見えなくなってしまったけれど、そんなことは一向に気にしなくなっていました。イエス様は、見えなくなったけれど、居なくなったのではないことが分かっていた。それで、彼らは、すぐに立ち上がり、エルサレムに戻って行った。日が暮れていたにも関わらず、11キロの道のりを、仲間の待っているエルサレムに上って行った。そして、二人は、仲間の弟子たちがこう言うのを聞いた。「ほんとうに主はよみがえって、シモンにお姿を現された。」(34)エルサレムでは、イエス様がよみがえられたことの驚きと喜びに満ちていた。二人の弟子たちは、その仲間に加わり、自分たちの経験したことを分かち合った。そして、そこに再び主イエス様が、まるで、彼らと一緒に喜ぼうとするかのように、弟子たちを祝福するかのように姿を現して下さったのです(36~43)。  イエス様は、信じる者たちが集まる所に、イエス様のことを語り合う所に、近づいて来られ、ご自身の臨在を置いて下さっている。それは、目に見えないかも知れない。いや、むしろ見えない。見えなくてもいいのです。しかし、私たちは、今日ここに集まって、喜びの杯を掲げて、こう言うことが出来るのです。  「主イエス様は、よみがえられた。今、ここに生きておられる!!」  今日、共に主イエス様を祝いましょう。それこそが、ここに集う意味です。祝福です。そして、私たちの証しであり、宣教なのです。  「主イエス様は、よみがえられた。今、ここに生きておられる!!」

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