今年のクリスマスは、いつもと違う迎え方をしています。心がけてそうしたわけではありません。ただ、今までとは違う環境に導かれていると言うだけのことです。クリスマスシーズンの渦中にあると言うよりは、周辺にいるような、遠目に眺めているような感覚です。仕事柄、今まではクリスマスを、主催する側に立ち、良いものにしなきゃとか、恵まれなきゃ、本物を伝えなきゃ…と言うプレッシャーを感じて、頑張って遣って来ました。でも、今年は、主催から離れ、そういう追われる感じではなく、静かです…。嬉しいような、寂しいような…。巷には、クリスマスなんか無けりゃ良いのに…と思っている人もいると聞きます。何となく分かるような気がします。クリスマスを迎えるのって、結構な気力と体力が要るのです。元気でないと迎えられなかったりするのですよね…。そんな中、ふと考えさせられるのです。クリスマスって何のためにあるのだろう…。イエス様は、何処の誰のところに来て下さったのだろう。
イエス様は、クリスマスをどこか遠いことに感じている私たちの所に、そっと来て下さったのだと…。
主イエスのいのちが、あなたのうちに満ち溢れますように。主がこう言われます。「あなたは、わたしの愛する子。わたしは、あなたを喜ぶ。わたしは、決してあなたを離れず、またあなたを捨てない。安心して行きなさい。」
ヨハネの福音書1章6〜8,19~28節「声になって」
「愛するイエスよ、
わたしたちがどこに行こうとも、あなたの香りを放つことができるように助けてください。
あなたの霊といのちで、わたしたちの魂を満たしてください。
わたしたちの存在が、ただあなただけを輝き出すことができるように、
すみずみまでわたしたちを貫いてあなたのものにしてください。
わたしたちと出会うすべての人が、わたしたちの中にあなたがおられることを見出すように、 わたしたちを通して輝き、わたしたちのうちにいてください。
イエスよ、人々がもはやわたしたちではなく、ただあなただけを見ますように。
わたしたちのところに留まりください。
そうすればわたしたちもあなたが輝くように輝き、
隣人を照らす光となって輝くことができるでしょう。
光は、おお、イエスよ、
すべてあなたからのもの、わたしたちからのものなどではありません。
わたしたちを通して隣人を照らす光、それはあなたです。
わたしたちの周りの人々を照らし、
あなたが一番望まれる方法で、あなたを賛美することができますように。
説教によらないであなたを伝えることができますように。
ことばによってではなく、わたしたちの模範によって、 わたしたちの行いが共感を呼び起こすという、人を捕らえる力によって。
わたしたちの心はあなたへの愛で満たされているという確かな充足によって、 あなたを伝えていくことができますように。アーメン。」
〜「キリストの輝きを放つ」ジョン・ヘンリー・ニューマン枢機卿の祈り〜
「おまえは、何者だ。誰に断って、こんなことをしている。」ユダヤ人たちが、祭司とレビ人を遣わして詰め寄って来た。ヨハネは、神から遣わされて、ヨルダン川で彼の許に集まって来る人たちに、神に立ち返り、神と共に生きるための、悔い改めの洗礼を授けていたのです。ヨハネは、答えた。「私はキリストではない。預言者イザヤが言ったように『主の道をまっすぐにせよ。』と荒野で叫んでいる者の声です。」(20、23)周りは、彼に期待した。彼の言動を見て、彼がキリストではないか…と。しかし彼は、「私はキリストではない」と言った。彼は、知らされていた。キリストがどのようなお方であるかを…(27)。それ故に、自分がどれ程のことをしようとも、人々に注目され、もてはやされ、評価されようとも、それに踊らされることはなかった。
自分が特別な存在、影響力を持つ者であると見られたいと言う願いは、どんな人の中にもあるのではないだろうか。しかし、それが時に私たちを苦しめる…。「あなたは特別だ。自分が特別で在ることをこの世に証明しなさい。」と言うメッセージが私たちを追い立てる…。いつも自分が主役でなければならない、特別でなければ価値がないように思わされ、平凡である日々に焦り、誰かと自分を比較して、自分が上か下かで一喜一憂してしまう…。「おまえは、何者だ。」ヨハネに投げかけられた言葉が、違った意味で私たちに迫る。私たちは、何者なのでしょうか。
「私はキリストではない」そう答えたヨハネは、自分のことをこう表現した。「『主の道をまっすぐにせよ。』と荒野で叫んでいる者の声」彼は、自分を「声」だと言った。「私は声だ」とても不思議な言葉です…。ヨハネは、何が言いたかったのでしょう。彼は、一体誰の「声」なのでしょうか。
私たちは、何かを伝えたいと思う時、心が何かで一杯になり溢れ出す時、「声」を出します。「声」は、その人の心の響きです。ヨハネは、自分を「『主の道をまっすぐにせよ。』と荒野で叫んでいる者の声」だと言った。誰が荒野で叫んでいるのでしょう。それは、神です。神が荒野で叫んでいるのです。神が、人を探し、ご自身のもとに立ち返ることを求めて叫んでいるのです。彼は、神の叫び声になった。
彼は、神の心と一つになろうとしていた…。だから、彼には、自分が何者であるか、どれほど特別か、影響力があるかなどと言う問いがそれほど重要なことではなかったのかも知れない。むしろ、彼には、自分がどう言う者であるか、どんな評価を受けるか以上に大切なものがあった。彼の心を捉えて離さないものがあった。彼は、自分ではない誰かを見ようとしていた…。
私たちは、知らない間に自分に注目することに慣らされているようです。私は、私の為に生きている…、そのように自分の事ばかり考えるようにと煽られている…。そして、互いの繋がりを見失い、孤独を深め、悩みを深めているように思います。人は、自分の為だけに生きることは出来ないのです。
ヨハネは、彼に問い詰める人々にこう言った。「あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられます。その方は私のあとから来られる方で、私はその方のくつのひもを解く値うちもありません。」(26、27)「あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられる…」彼は見ていた。彼の心を捉えて離さない方、キリストを。イエス様が、彼の前に、そして人々の中に立っていたのです。この方の存在が、彼の心を捉えて離さなかった。彼は、何としてもこの方を証ししたかった。語りたかった。見せたかった。人々を出会わせたかった。彼は、キリストを指し示す神の声、キリストの声になりたいと思った。彼は、キリストの魅力に捉えられていた…そう言うことが出来るでしょう。
人は、余りにも素晴らしいものに出会うと、自分が見えなくなる…。自分がどうだとか言うことより、その素晴らしさに捉えられてしまう。そして、それを表現したくなる。見せたくなる。証ししたくなるのです。そのような出会いを経験している人は、本当に幸いです。
「あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられる」キリストは、ヨハネと出会って下さり、彼の心を掴んでしまわれた。ヨハネは、人々が彼を通してキリストに出会うようにと、全身全霊でキリストを表現し、伝えた。「あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられる」彼は、「声」になろうとした。
「あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられる」今日、イエス様は、私たちの中にも立っておられる。イエス様は、あなたと出会って下さる。あなたは、キリストと出会っている。イエス様と出会っているあなたは、キリストの「声」になっている。
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