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イエスの風 No.21

更新日:2017年11月14日

 日々の歩みには波があります。浮き沈みがあるのです…。調子が良く、何もかも上手く行くように思える日があれば、もうお先真っ暗と信じて疑わなくなる時があります。今日は、暗い気持ちで悶々とする1日でした。スマホのアプリで、マインドフルネスタイマーと言うのがあり、1時間毎にタイマーを鳴らし、画面にイエス様のイコンと聖書の言葉、「あなたはわたしの愛する子。わたしは、あなたを喜ぶ。」(マルコ1:11)が出て来るように設定しているのですが、今日はしつこいくらいにそれが耳につき、目につきました。タイマーが鳴る毎に、はっとさせられ、スマホをポケットから取り出して見て、「なんだタイマーか…」と呟いていましたが、ふと気付かされました。「イエス様が、こうやって毎時間、毎時間、自分に語りかけてくれているのか…。彼の声がずっと響き渡っているんだ…。」でも、今日は、なかなかその言葉を素直に受け取れずに悶々とし続けていました…。そんな日もあるのです…。

 キリストの言葉が、あなたの心に響き渡りますように。主がこう言われます。「あなたは、わたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。わたしは決してあなたを離れず、またあなたを捨てない。安心して行きなさい。」


マタイの福音書23章1〜12節「偉大な人になりなさい」


 みんな偉くなりたいのです。偉い人、素晴らしい人になることに憧れます。誰かに尊敬されたり、影響を与える人になりたいと思うのです。誰も見向きもしない、尊敬されるどころか軽蔑され、悪い影響しかもたらさない人に誰がなりたいでしょう…。

 しかし、イエス様はおっしゃるのです。「あなたがたは、先生と呼ばれてはいけません。…あなたがたは、地上のだれかを、われらの父と呼んではいけません。…師と呼ばれてはいけません。」(8~10)イエス様の言葉に、私たちのほのかな憧れは打ち砕かれてしまいます。人から称賛されるような人に、偉い人になることを願うのは間違いなのでしょうか…。イエス様は、随分と厳しいことをおっしゃいます。律法学者、パリサイ人たち、時の宗教家、指導者たちを厳しく責めておられます。彼らを激しく非難しながら、集まって来た人々と弟子たちを教えられたのです。「彼らの生き方を真似てはいけない…」

 律法学者、パリサイ人は、聖書を詳しく調べ、解釈して人々を教えて来ました。また、それらを厳格に守り行おうとしていたのです。熱心で、真面目でした…。決して不真面目で、不正や悪を行い、自堕落な生活をしていたわけではなかっと思います。イエス様の許に集まっていた群衆よりも、弟子たちよりも、ちゃんと生きていたのではないかとさえ思うのです…。

 けれど、イエス様は彼らに厳しい目を向けられる…。どうしてでしょう。それは、彼らがモーセの座を占めていたからです。権威を持っていたからです。人々を教え、導く立場に居たからです…。人を教え、指導する立場に身を置く者は、ことさら厳しい目にさらされます。それは、宿命です。その目は、教えよりも、生き方に向けられるのです…。しばしば、教えることと、その行いが違ってしまう。語る言葉と生き方に大きな開きが出てしまうのです。立場や地位だけが独り歩きしてしまうようなことが起こるのです。

 牧師になって25年が経とうとしています。けれど、このギャップに心が苦しくなることがあるのです。学び得たことを語ります。しかし、そこに生き方が伴わない自分を見出すことがしばしば…。語る言葉に迷いが出てしまうことがある…。自分の生き方を見た時に、堂々と、自信満々に語ることが出来なくなってしまう。

 けれど、イエス様は、そんな牧師たちの現実をご覧になり、「お前は行いが伴っていないから語るな!」とおっしゃるのでしょうか…。むしろ逆ではないかと思います。「お前は行いが伴っていない。だから、心して語れ。わきまえつつ、神の言葉を大胆に語れ。」けれど、このわきまえが失われてしまうことがあるのです。自分を忘れてしまうのです…。先生と呼ばれ、それなりの地位を得、立場を築く時に、自分は免除されているような気持ちになってしまう…。わきまえ、自戒の心が失われてしまうのです。それは、恐ろしいことです。自分が見えなくなってしまう…。自分がわからなくなっている。それらしい格好をし、そのような習慣を身に付け、自分は信仰深い、信仰者であると言う自負が、正しい教えを知っていると言うこと、そのような立場に身を置くことが、自分を見失わせるのです。

 教会の牧師です、教師です、執事です。クリスチャンです。洗礼を受けています。毎週教会に通っています。聖書を読んでいます。聖書の教えに通じています…。そのような肩書きによって、自分が見えなくなってしまう。その肩書きに甘んじてしまうのです。

 けれど、イエス様は、そんなくだらない肩書きを捨てるようにおっしゃるのです。「あなたがたの父はただひとり、すなわち天にいます父だけだからです。あなたがたの師はただひとり、キリストだからです。」(9、10)父なる神の前に立ち、キリストの前に立つ時、自分が何者であるかのように思っていることが傲りであることを知らされます。高い所にふんぞり返って、人を批判して、自分の正しさを証明しようとしていることがちっぽけで、くだらないことに思えて来るのです。

 どうしてでしょうか…。それは、父なる神もキリストも、身を低くして私たちに仕えておられるからです。私たちの師であるキリストは、自分を捨て、私たちの前に跪き、いのちまでささげて下さいました。徹頭徹尾、仕えて下さいます。私たちの師は、今も仕えておられる…。そして、こう言われるのです。

 「あなたがたのうちの一番偉大な者は、あなたがたに仕える人でなければなりません。」(11)

 私たちの師は、イエス様です。この方の他に、師と呼べる方はおられません。イエス様は今日、本気で私たちを招いておられます。偉大な者と呼ばれるようになることではなく、偉大な者になるようにと…。人に認めてもらうのではないのです。イエス様が認めて下さるのです。今日、人に仕えるあなたは幸いです。職場で、家庭で、社会で、膝をかがめ、黙々と仕えるあなたをご覧になって、イエス様が、こう言って下さいます。

 「あなたは、わたしと共に仕える者。あなたは、偉大だ。」

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