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イエスの風 No.17

 先週から作品制作に追われています。10月11日から15日までB&Aの作品展が目黒区民ギャラリーで開催され、そこに出展するために30号の作品を制作しています。僕は、作品を描くことが、地図を持たずに旅をするようなものだと感じています。きっと何処かに辿り着くだろうとぶらぶらするのです。そうすると予期せぬ出会いがあり、面白い発見があります。先を急ぐと見逃してしまうことが沢山あるように思います。僕の作品制作は、描く時間よりも、キャンバスを眺めながら考え込んでいたり、息抜きに出かけたりする、何もしない時間の方が沢山あるように思います…。作品を描きながら、自分を描いているのかも知れません…。締め切りはありますが、なるべく急がぬよう、寄り道をしながらじっくりと筆を進めたいと思います。今週、イエス様があなたと言う作品に新しい一筆を加えて下さいますように。

主イエスのいのちが、あなたの内に溢れますように。主がこう言われます。「あなたは、わたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。わたしは決してあなたを離れず、またあなたを捨てない。安心して行きなさい。」

マタイの福音書18章21〜35節「わたしは、七度を七十倍するまでと言います」

 人間にとって、日々の生活の中で実行するのが難しいことが色々あります…。赦し、人を赦すと言うことは、その中で一番難しいことではないかと思います。自分を傷つけた人、自分に対して不当な扱いをする人、迷惑をかける人、そして自分自身を赦す…、出来れば扱って欲しくないこと、そっとしておいて欲しいと思うことです。誰か他の人の話ならば聞けるかも知れませんが…、自分の身に迫る話になるとそうは行きません。出来れば「赦し」などと言う話はしないで欲しい、聞きたくないと思う…。傷つけば傷つくほどに、その痛みや苦しみが深ければなおさらです。  人を赦すこと、隣人を赦し、自分を赦すことは、本当に大切…。どれだけ大切なのかは、わざわざ説明する必要はない。人を赦せないでいる苦しさ、惨めさ、赦せない思いに囚われている時、そのような場の空気の重さを知っています…。生きた心地がしません。息が出来ないほどに苦しいのです…。けれど、それでも、赦すことは簡単ではありません。簡単ではないと言うことは、それだけ大切なことだとも言えるかも知れませんが…。  イエス様は、赦しについてお話しになりました。ひとりの人を赦すことが、どれほど大切であるか、そして、人には赦す権威と言うか、責任が委ねられていると言う話をなさったのです(10~20)。それを聞いたペテロが、イエス様に向かって訊いたのです。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」(21)主イエス様は応えます。「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。」(22)イエス様は、すごい話をするのです。七度を七十倍するまで…、単純に490回までと言うことではありません。徹底的に、無限に赦せと言うこと。こりゃぁ困った話です…。そんなの無理…だと。私たちは、自分にしても、人に対しても簡単に赦してはいけないと思っています。そんなことしたら、この世界には悪が蔓延り、大変なことになってしまう…、そんな心配すらしてしまう。けれど、イエス様はおっしゃるのです。「無限に赦せ。何度でも赦せ…」そして、驚く弟子たちに向かって、不思議なたとえを話される。「天の御国は…」(23~35)また「天の御国」の話です。  とんでもない話です。自分の主人にとてつもない借金、今のお金に換算すると4800億円、をしている人のそれを、主人が可哀想に思って帳消しにしてしまうのです。あまりに無茶苦茶な話しで実感が湧きませんが…。とにかく凄いことです。でも、話には続きがあり、借金を免除してもらった人が、すぐ後に仲間の借金80万円を帳消しにするどころか、それを返すまで牢屋に入れてしまった…。何という話、どうしてなのでしょう…。自分のことと、人のことは違うのでしょうか。自分は莫大な借金を帳消しにしてもらったのだから、仲間の、しかも自分の借金に比べれば微々たるものを帳消しにしてもいいのでは…と思います。けれど、たとえ話ですから、大袈裟に言って印象づけようとしているのでしょう。このたとえから、人を赦すことの難しさ、人はすぐに自分のことは棚に上げ、人には厳しくしてしまう…と言う私たちの現実を知らされるのです。  けれど、私は、このたとえのさらに続きが気になります。何だか、すっきりしないのです…。借金を帳消しにしてもらった人が仲間にした仕打ちが、主人に伝わり、主人が、「私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。」(33)と言い、帳消しにしたはずの借金を返すよう要求し、返すまで牢獄に入れてしまうと言う結末になるのです。イエス様は、このように話を締めくくられる…。「あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。」(35)この最後の言葉は、かなりショックです…。赦すことの難しさを抱えている者にとって、驚きと同時に恐れさえ感じます。一体どう言う意味だろう…と考えさせられる。人を赦せなかったら、自分が赦されたことが帳消しになってしまうのでしょうか。私は、不遜にも、イエス様の最後の言葉に対してこう思ってしまう…。「それでは、父のあわれみには限度があるのですか?イエス様のおっしゃったことと、このたとえに描かれる父には矛盾がある…。イエス様は、七度を七十倍するほど、無限に赦せと言われたのに…」イエス様のおっしゃった最後の言葉、「あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。」には間違いがなく正解で、おっしゃる通りです。こんなに赦してもらったなら、赦すべきです…。でも赦すこと、心から赦すことが難しい、出来ないのです…。そんな私たちに対して、父なる神は怒り、「お前を赦さない」とおっしゃるのでしょうか…。  イエス様はペテロに言われたのです。「七度を七十倍するまで…、無限に赦せ…」イエス様の言葉に偽りはないのです。それ故にイエス様は、ご自身の言葉、「あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。」を超え、打ち破ってしまわれたのです…。イエス様は、赦せない私たちのために身を投げ出し、十字架についてくださった。身代わりになり、牢獄に入って下さったのです。  主イエス様は、赦せない私を赦して下さる。身代わりになり、牢獄に入って下さいました。父なる神の怒りを引き受けて下さいました。私たちは、何度も、何度も、繰り返し赦せないと言う思いに引きずり込まれます。そして、何年も、何年も赦しのために格闘し、苦しみます…。挫折と失敗を繰り返すのです。赦せない…。本当に傷ついたなら、深く傷ついたなら、赦せないのです…。自分のことも、人のことも、赦せない…。本当に哀しいことです…、憐れみの心を持つことが出来ないでいるのです。心から愛に生き、憐れみ深く生きたいと願う、寛容に赦すことが出来るようにと祈るのに、出来ない…。そんな自分を見つめると惨めに思えて来ます。そして、父なる神の怒りに怯え、身を震わせるのです…。  しかし、主イエス様が、こうおっしゃる。「七度までとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います…」(22)イエス様が見えますか。イエス様は、十字架につかれたお姿をもって、私たちの前に立っておられます。イエス様は、誰のために十字架についておられるのでしょうか…。私のため、あなたのためです…。私たちに出来ることは、ただこのお方を見るだけ。イエス様は、今日も十字架につき、あわれみ深いまなざしで私たちをご覧になっている。私たちも主を見つめ、黙ってひざまずくのです。  聞こえますか。今日、イエス様の声が、十字架からあなたに向かって響いています。「七度までとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。」この声は、他の誰でもない、あなたへの赦しの言葉です。

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