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イエスの風 No.16

  台風が近づき、通り過ぎようとしています。いろんな所で被害が出ていて、心が痛みます。どうか、主がその地に癒やしをもたらして下さいますように。人生には、いろんな嵐が吹き、大切なものが壊されたり、吹き飛ばされたり、傷を負ったりしてしまいます…。本当に辛いことです。一緒に集まって、共に慰めを受けたり、励ましを受けることが出来ることは幸いです。でも、なかなかそんな状況に導かれないことも多いのです。ふと思いました。一緒に祈りませんか。物理的には難しいでしょうけど、祈りによって、不思議なかたちで御臨在下さる主イエス様によって、共に居ると言うことが実現していることを信じたいのです。誰かが祈ってくれている、互いに祈っていることを信じて歩めることは幸いです。   よろしければ、祈りのリクエストをお送り下さい。こちらも祈りをお分かちします。祈りのリクエストは、windofjesus@yahoo.co.jpまで。いただいた祈りのリクエストは、非公開にしますのでご安心ください。

主イエスのいのちが、あなたの内に溢れますように。主がこう言われます。「あなたは、わたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。わたしは決してあなたを離れず、またあなたを捨てない。安心して行きなさい。」

マタイの福音書18章10〜20節「わたしもその中にいるから」

 人はひとりで生きる事が出来ません…。だから、共に生きる人を求め、人は集まるのです。人が集まると良いことがあります。励ましがあり、慰めがあり、共に労すると実りが豊かになります。ひとりでは出来ないことが出来ます…。

 けれど、人が集まると辛いことがあります。傷ついたり、苦しんだりする。お互いに必要としているのに、傷つけ合ったりしてしまうのです…。人生の悩みの大半が、人との関わりの中で生まれる。苦しみや心配事の多くは、私を含めた、人から生まれているのです…。それは、本当に辛いことです。どうにかならないものなのでしょうか…。

 イエス様は、とんでもないことをおっしゃる方です。その言動が、周りにいる人を驚かせ、戸惑わせて来ました…。たとえて話されることも、分かりやすくと言うよりは、インパクトを与えるために話されているようなことがありました。

 「あなたがたはどう思いますか。もし、だれかが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。そして、もし、いたとなれば、まことに、あなたがたに告げます。その人は迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜ぶのです。」(12~13)本当にこんなことをする人がいるのでしょうか…。一匹を捜しに出ている間に九十九匹がどうにかなってしまったら…。イエス様は、有り得ない話しをされる…。もし、これを実行したら…、大混乱が起こるでしょう…。むしろ、私たちには到底出来っこない話しをしておられる。理想は分かるけど…、それを共に集まる場で追い求めたら、立ちゆかなくなってしまう…。誰もがそう思い、理想と現実の狭間で悩まされることになるのです。

 でも、そんな戸惑う私たちに対して、イエス様は黙っていない…。「このように、この小さい者たちのひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではありません。」(14)父なる神が、どんなに小さな者に対しても心を注ぎ、見捨てず、諦めようとはなさらないと言われるのです。

 そして、さらにこんなことまでおっしゃる。「また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行ってふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。もし聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです。それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げなさい。教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。」(15~17)これもまた驚くような言葉です。イエス様は、ここで何を言おうとしておられるのでしょう。それは、赦しのことです。自分に罪を犯した者を赦すことについて話された。どのようにして人を裁くのかについて話されたのではないのです…。罪を犯され被害を被った人に、赦しの手続きを取るように進めておられる…。自分勝手な判断で簡単に裁かないようにとおっしゃっているのです。むしろ、被害を被った者から和解の手を差し出すように言われる…。これは困りました…。本当に大切なことは分かります。少しでも聖書を学んだことのある者は知っているでしょう。「目には目を、歯には歯を」でなく、「敵を赦し、愛する」と言うことを…。そして、憎しみの連鎖は、赦しでしか解放されず、癒やしは始まらないと言うことを…。でも…、でも…、そんなことは出来ない…。

 しかし、イエス様は、さらに私たちに追い打ちをかけられる…。「まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。」(18)私たちに赦しの権威が委ねられている…と言うのです。これはすごい迫りのある言葉です。イエス様は、赦すようにと迫られる…。そのような迫りを感じで、ペテロは逆にイエス様に迫った…。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」(21)

 ああ…、もう私たちにはお手上げです。無理です。こんなこと言われたら…、自分自身の内にある憎しみと赦しのせめぎ合いに打ちのめされて、ボロボロになって、イエス様に噛みつかんばかりになって「今の私にそんなこと言わないで下さい…」と耳を塞いでしまいます。イエス様に背を向けてしまうのです…。

 でも、イエス様の声が響いて来るのです。塞いだ耳の隙間から、その声が聞こえて来る…。「まことに、あなたがたにもう一度告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」(19、20)

 ふたりでも三人でも共に集まり、祈れとおっしゃる…。そして、「わたしもその中にいる」と主イエス様はおっしゃる…。一体この言葉はどう受け止めたら良いのでしょう。ふたり、三人とは一体誰で、どんな集まりなのでしょう…。イエス様は、集まるメンバーや形式に注文を付けておられない。どんな集まりでもいい、とにかく集まれる者が…。そんな自分たちの限界、お手上げ状態を分かち、祈る、呻く…。とにかく、そんな弱い者たちが集まる場所に、心合わせて祈る中に、主イエス様は、「わたしもその中にいる」と力強くおっしゃる。この方が、何かをしようとしておられる。主イエス様は、とんでもないことをおっしゃる方です。「このように、この小さい者たちのひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではありません。」と言って、私たちを捜し飛び出して行かれた方です。そればかりではなく、罪を犯す者、どうしても言うことを聞かない者を「異邦人や取税人のように扱え…」と言いながら、自分が言った枠さえも打ち破って、異邦人や取税人を友と呼び、食事を共にしてしまわれた方でした。さらには、神から離れ、神の心に生きることが出来ない者のために、自らが身代わりになっていのちを捨てて下さった方です。

 私たちは、祈りの中で、このお方と出会うのです。今日も共に居て下さる主イエス様とお会いするのです。主イエス様は、今日、この交わり、私たちが共に居る、祈りを共にする中に、この声を響かせておられるのです。「わたしもその中にいる」私たちが共に祈るのは、この声を聴くためなのかも知れません…。主イエス様は、この声を聴かせようと、私たちを招き、共に祈るように導かれるのです。

 「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいる。」今日、主イエス様と三人で一緒に祈りませんか。

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