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イエスの風 No.12

 20日の午後から神戸に行き三泊四日、六甲山の山の中で高校生たちと一緒に過ごしていました。電波がほとんど届かない場所にいましたので、配信が遅くなりました。山の中では心地よい風が吹いていました。その風に吹かれながら、ふと聖霊のことを想い起こしました。「聖霊」という言葉は、「息」や「風」とも訳せる言葉だそうです。イエス様は、聖霊の存在を、すごく身近に感じておられたのだと思います。そして、私たちにもそのように教えて下さった。風に吹かれる時、息を感じる時、そこにおられる神、聖霊の存在を想い起こすことが出来るようにと…。優しい風に吹かれながら、自分の中に在る息を感じながら、私は、神によって、イエス様によって生かされているのだと言うことを想い起こすのです。暑い日が続くようです、日曜日まで滞在している京都は最高気温37度だと言うことです…。どうか、今週も身近にイエス様の存在を感じて歩めますように。

主イエスのいのちが、あなたの内に溢れますように。主がこう言われます。「あなたは、わたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。わたしは決してあなたを離れず、またあなたを捨てない。安心して行きなさい。」

ルカの福音書23章32〜43節「あなたは今日、わたしと一緒にパラダイスにいる…」

 人生の終わりが近づく時、今見ている景色は、どんなふうに見えるのだろうか…。私たちは、どんなふうに死を迎えるのだろう。痛みや苦しみがあるのだろうか、そんな中で何を思うのだろうか…。私たちは皆、死と向き合わなければならない。誰ひとりとして、それを避けることは出来ない。誰も代わりに向き合ってはくれない。私の死に対して、私以外に向き合うことが出来る人はいない…。人は皆、自分の死と向き合うと言う使命のようなものを背負っている。

 そして、その死と向き合うと言うことは、すなわち、生きていると言うことであり、生きるということと向き合うことでもあるのです。死とどう向き合うかと言うことは、死という瞬間をどう迎え、生きるかと言うこと。人は死ぬ最期の瞬間まで生きています。一瞬にして、地上の生という所から、全く別の所へと、まるで鳥が羽ばたいて、飛び立つかのように移って行くのです。

 何人かの死の瞬間に立ち会いました。そして、その瞬間の不思議さを、神秘とも呼べる感覚を味わいました。死を迎えると言うことは、本当に不思議なことです…。

 今、私たちは、人が死を迎える瞬間に立ち会おうとしています…。三人の人が処刑されて死を迎えようとしているのです。十字架につけられています…。国家反逆罪、テロリスト、社会の秩序を乱し、混乱させようとした人たちが、見せしめのためにつけられるのです。国に、権力に逆らう者、危険人物と見なされ、そのような人が二度と出て来ないようにと見せしめのために苦しむだけ苦しめて、命を奪う…。人は、それを目の当たりすることを恐れます。その姿は、呪われた姿、苦痛に満ち、見るものを恐怖に陥れる…。

 この人たちの死が、私たちに何かを語りかけようとしている。ひとりの死が、残され生きる者たちに強烈なメッセージを伝えようとするのです。死を身近に経験し、目の当たりにした者は、その人生を問い直し、変えられるほどのメッセージを受け取るのです。「今、私は何のために生きているのか…。私の生き方は、これで良いのだろうか…」と。今、この十字架の光景は、私たちに迫り、問いかけるのです。あなたは、何のために生きているのか。あなたの生き方は、それで良いのだろうか…。

 この十字架の丘には、多くの人の声が響いていました。その声は、大きく要約することが許されるならこうなるでしょう。「あなたの人生は間違っている。意味がない…。神に呪われた人生だ…」人々は、主イエス様を十字架につけながら叫びました。「お前は自分を救うことが出来ないのか…。今すぐ十字架から降りて来い。そして、私たちを救え…、そうすれば、お前のことを認めてやろう。」この叫びは、今も世界中に響いています。私たちの心の深いところから生まれて来るのです。私たちは、今も多くの苦しみや悲しみに直面して…、それらを目の当たりにし、経験して叫ぶのです。「神は何処にいるのか。救いは本当にあるのか。神が愛ならば、どうしてこんなことが起こるのが許されるのか…。神は居ない…、神は無力だ、神を信じることは何の益ももたらさず、意味がない…」

 主イエス様に向かって叫んだ犯罪人のひとりの叫びは、まさに私たちの叫びなのではないかと思うのです。「お前は救い主ではないか。自分自身と私たちを救ってみろ。」一体、神は、主イエス様は、私たちの苦しみの中で、何を見ているのでしょうか…。何処を見ているのでしょう。私たちは、今の苦しみ、悲惨しか見えず、失望してしまいます。けれど、主イエス様には、違うものが見えていた。

 もうひとりの犯罪人がこう言ったのです…。「イエスよ。あなたの御国においでになるときには、わたしを想い出してください。」この人に何が起こったのだろうか…。死の苦しみの中で、彼は導かれた、悟った…。自分の人生を一瞬にして振り返り見た。今、自分が、自らのやって来た事によって、十字架にかけられ、苦しめられている。そして、自分は、そこから自力で解放することも、救うことも出来ないで死を迎えようとしている。自分の人生が、全て無意味に終わろうとしている。「全ては無駄だった…、俺の人生、俺のいのちは一体何だったのか…」彼は、自分の無力さを悟った。迫り来る死、死に行くことを感じて、自分が神から遠く離れていること、近づくことも出来ず、死を迎えようとしていることを感じた。

 「私を想い出してください」彼は、すがるような思いで、主イエス様に言ったのです。しかし、この人の言葉は不思議です。死にゆくのに、人生の終わりを迎えようとしているのに、何か先があることを見ているように言うのです。明日があるかのように、「イエスよ。あなたの御国においでになるときには…」人はどこかで死の先にあるものを知っているようです。死んだら終わりで、全てが無くなってしまうのではないと、どこかで感じている…。

 「私を想い出してください」彼は、何か新しい世界への期待を持った。本当に分かっていたのかどうかは分かりません…。けれど、彼は主イエス様に言ったのです。どうしようもない無力さを味わい、そのいのちが苦しみ、絶え果てようとしていることを感じつつ…。どん底の暗闇の中で、絶望の淵で、無力さの中、呻く彼に、まさかの主イエス様からの声が響いて来たのです。

 「はっきり言っておくが、あなたは今日、わたしと一緒に楽園(パラダイス)にいる。」(43)「あなたは今日、わたしと一緒に楽園にいる」「今日」と言われた。「明日」ではない。遠い未来でもない。今日、今ここに、十字架の苦しみの最中で、無力さのどん底で…。「今日、わたしと一緒に楽園にいる」一体どう言うことなのでしょうか…。主イエス様には、一体何が見えていたのでしょうか。こんな苦しみの中、絶望の淵で…「今日、わたしと一緒に楽園にいる」主イエス様は、ハッキリと見ておられた。このいのちが、今ここで終わるものではないこと。生きると言うことが、ここで、十字架の上で虚しく終わるものではないことを。主イエス様のいのちも、そして、この犯罪人のいのちも終わらない、虚しく終わらない。尽きぬいのち、永遠のいのちがある。今、ここに、新しい天と地、神の国に生きるいのちがある。

 主イエス様は、このいのちを見ておられたのです。このいのちをもたらすために十字架についておられた…。主イエス様は、十字架の死を生きた…。主イエス様は、終わったのではなく、始められた…。十字架につくことによって生き、自分を救い…、(自分を救うとは一体どう言うことでしょう。自分を救うとは、自分の使命を全うし、自分らしく生き抜くこと…。)そして、私たちを生かし、救われた。私たちのいのち始めて下さった。「あなたは今日、わたしと一緒に楽園にいる」この言葉を世界中に響かせるために、あなたの人生に響かせるために、主イエス様は、十字架につかれた。そして、三日目によみがえって、今、御自分の王国に行き、その業を進めておられる。

 私たちは、自らの死を通して、自らの無力さを知らされる中で、この主イエス様のいのちに目覚めされられ、このいのちに生きるようになるのです。

 今日も、主イエス様の声が響いています。「あなたは今日、私と一緒に楽園にいる」でも、この声が本当に聞こえるのは、私たちが自ら十字架につけられる時、本当に自らの無力さと限界を知らされる時、すなわち小さな死を味わう時です。

 死は、私たちの日々の中に満ちています。けれど、私たちは、この死を恐れる必要がない、そこに主イエス様が共にいて、そこにいのちを溢れさせて下さるのです。 

 今日も生きて行きましょう。どんなに苦しくても、無力さの中で人生が無意味に見えても、もう後残りの時間が少ししかないと思えても…  主イエス様は、今ここに立ち、あなたにおっしゃいます。 「あなたは今日、わたしと一緒に楽園にいる。」

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