日本です…。あっと言う間の1ヶ月でした。バンクーバーの滞在中、日本が暑い、暑いと聞かされていましたが、帰って来ると若干暑さを感じるものの、それほど変わらない気温にほっとさせられています。この1ヶ月の経験は、一言で言い表すことが出来ません。でも、確実に私の中に生きています。色んな場面でよみがえってくるでしょう。帰路につく空港では、友人たちが見送ってくれました。カナダ式の挨拶を交わしながら、ここにも帰る場所があると感じました。帰る場所があると言うこと、迎え入れてくれる人たちがいること、旅を続ける者にとって大きな慰めであり、励ましです。私には、私を迎え入れてくれる人が居る、帰る場所がいくつかあります。それは、本当に幸いなことです。2年前にバンクーバーを訪ねた時に、ダウンダウンの街にあるアパートの窓に書かれた落書きの言葉を想い出しました。「I'M HOME」自分も、誰かのそのような場所になりたいと思います。そして、私を迎え入れてくれる人のいる場所、それが神の国なのではないかと思います。そう考えると、神の国が身近に感じられるように思います。
主イエスのいのちが、あなたの内に溢れますように。主がこう言われます。「あなたは、わたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。わたしは決してあなたを離れず、またあなたを捨てない。安心して行きなさい。」
マタイの福音書4章1〜11節「人が生きるのは…」
「食べる物がない…」これは大変なことです。それは、死を予感させます。いのちの危険が迫っていることを意味します。食べることと生きることは深く繋がっています。食べることは、生きることです。眠っている以外の時間、私たちは食べることに多くの時間を費やします…。そして、その合間に様々な活動をしているのです。時にその活動は、食べるために為されていることさえあるのです。食べることは、私たちにとって、喜びであり、楽しみ、人生…。食べることは、私たちにとって本当に大切なこと、生きている証し、いのちを味わい、喜ぶ、神聖な行いです。
イエス様が断食されたのです。40日40夜…、それは危険なことでした。40日間、何も食べないで過ごすことは、命懸けです。それは、イエス様も同じです。40日も断食をしたら、身も心もボロボロになるでしょう。「空腹を覚えられた…」(2)とは、「ちょっとお腹が空いたかな…」と言うような軽い話では無く、もう死にかけるほどの空腹です。もう立ち上がれない程、心身共に消耗し尽くしていた…。イエス様は、生と死のギリギリのところまで行ってしまわれた…。その時、声が聞こえて来た…。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」(3)目の前にある石ころを、パンに変えて飢えを癒し、神の子であることを証しするように…と言う声が聞こえてきたのです。
石ころをパンに変える…これはいい話、チャンスです。イエス様が神の子であることを証しするには、もって来いです。こうやって、目の前にある石ころをことごとくパンに変えてしまえば、自分のみならず、周りに居る、世界中の人たちに食べる物を提供することが出来ます。飢えを満たし、癒すことが出来る。飢えの問題は、現代もこの世界の中で深刻です。今も、「今日食べる物がない…」、そう言って死を待つばかりの人が溢れている…。イエス様が奇蹟を起こして下されば、そのような問題はすぐに解決してしまうでしょう…。道ばたの石ころを食べ物に変えるのです…。人生に起こる様々な問題に、イエス様がたちまち奇蹟を起こして解決を与えて下されば、どれほど嬉しいでしょうか。そして、多くの人がイエス様を信じるようになるのだろうか…、ふと、そんなことを考えてしまいます。
それほどに今、私たちの生きている世界には、様々な苦しみや問題が道ばたの石ころのようにゴロゴロと転がっていて、私たちの足を躓かせているのです。人生に苦しみや困難が起こらなければ、貧困がなければ…、そう願うのです。そして、神様に祈るのです。でも、瞬く間に奇蹟が起こり、問題が解決してしまうと言うことが、そう簡単にはない…「イエス様、奇蹟を起こして下さいっ!!」私たちは、そう祈るのです。そうやって、いろいろ祈り方を工夫してみて、イエス様に言うことを聞かせようとがんばってみるのです…。ふと、この試みる者の声、悪魔の声と、自分の声が混ざり、重なっているのではないかと思えて来ます。「イエス様、あなたが神の子ならば、私の言うことを聞いてくれ。私の願い通りのことをしてくれ。私が驚くようなことをしてくれ。そうすれば、私はあなたを神の子として認めよう…」けれど、イエス様は、それに対して祈った通り、願い通りにはしてくれない…。私たちは、「イエス様のひねくれ者っ!自己中っ!」などと呟きたくなります。もうとっくにそんなこと悟り切っていて、イエス様にはお付き合い程度で、適当な願いしかしない…と心に決めている人もいる…。
イエス様は、そんな試みる者の声、私たちの声にお答えになった…。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。」(4)人はパンだけで生きるのではない。私たちは、パンだけで生きているのではない…。私たちにパンが必要ないのではない、生きるためにパンが必要です…。でも、人はどんなにパンがあっても、それだけでは生きる事は出来ない…。私たちを今日生かしているのは、父なる神。私たちを生かすためにパンを下さるのは、父なる神。父なる神が、あなたを生かしたいと願って、パンを下さる。パンを下さろうとしている。
「神の口から出る一つ一つのことばによる」それは、一体どんなことばなのでしょう。それは、父なる神の愛、あなたを生かしたいと願う心…。ことばは、心を伝えるものです。ことばを聴くことは、そのことばを語る者の心を知り、触れること、そして、それを語る者に心触れられる経験です。私たちは、どうして聖書を開き、読むのか。どうして説教者は語るのか。それは、そこに溢れる父なる神の心に触れ、そして、父なる神に心触れられるためです。
「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」イエス様は、命懸けで石をパンに変えることを拒み、その誘惑を退けて下さいました。なぜなら、もし人が「人はパンだけで生きる」と言う言葉に屈してしまえば、人は父を見失い、その魂が滅んでしまうからです。イエス様はおっしゃったのです。「わたしが生きているのは、父のことば、心、愛によるのだ!!」イエス様は、御自分が父なる神の愛によって生かされていることを証しされた。自分の力で生きるのでなく、父なる神の愛によって生きようと決断された。それは人が、父なる神の心を知り、父なる神に心触れられ生きるため。父なる神に身を委ね生きるようにするためです。
父は、心からあなたを生かしたいと願い、日毎の糧を下さっている。あなたが、今日いただく糧は、父の愛の贈り物。今日の食卓に父の愛が溢れています。父は、食卓であなたの心に触れて下さいます。イエスの言葉と共に、父の愛と祝福を感謝と共に味わいましょう。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。」
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