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執筆者の写真じょ〜じ

イエスの風 No.1

フリーランスになって初めの日曜日。今日は、ペンテコステです。聖霊の風が吹くとき、新しいことが始まることを予感させます。20数年ぶりにとても静かで、のんびりとした聖日を過ごしています。なんだか、新しい風が私の中に吹き始めているように感じます。先週までの忙しい日々を想い起こしています。毎週、沢山の人と会っていました。その寂しさはあります。心許せる仲間と集まり、楽しくおしゃべりしたり、遊んだりして時間を過ごしたいと思うゆとりが、心の深い所から湧いています。ああ、これこそ主が備えて下さった安息日なんでしょうね…。少々、今までの過ごし方を考え直させられる思いです。素敵な聖日を感謝します。そして、私たちに聖霊が与えられ、イエスの風に吹かれて生きることが出来る一週間を期待します。どうか、日々忙しく過ごしておられるおひとりおひとりに祝福がありますように。主が守られますように。キリストのいのちが、あなたのうちに豊かに溢れますように。主がこう言われます。「あなたは、わたしの愛する子。わたしは、あなたを喜ぶ。わたしは、決してあなたを離れず、またあなたを捨てない。安心して行きなさい。」父、子、聖霊の神があなたと共に生きて下さいますように。ペンテコステの説教です。お読み下さい。これからぼちぼちとメッセージを配信出来ればと考えています。ご希望の方は、メッセンジャーにメールアドレスをお知らせ下さい。 コリント人への手紙第一12章31~13章13節「最高の道へ」

 今日は、キリスト教会においては、その暦上、特別な日であります。キリスト教会の歴史の中では、大切な日が四つあります。それを一年のサイクルの中で、記念してお祝いをします。降誕日、受難日、復活日、聖霊降臨日です。これらの日が記念する出来事は、キリスト教会が信じる救いが如何なるものであるかを表しています。私たちは、これらの出来事を想い起こしつつ、私たちが信じる救い、キリスト教会が2000年の歴史の中で説き、伝え、共有して来た救いが如何なるものであるかを心に刻むのであります。  そして、今日、私たちが共に祝い、記念しようとしているのは、聖霊降臨の出来事であります。通称ペンテコステと呼ばれるお祭りです。ペンテコステとは、「50番目」と言う意味を持つ言葉です。イスラエルにおいて過越しの祭りと言うものが春に行われますが、その50日目のことを表しています。そして、イスラエルでは、その日を春の収穫の感謝をささげる祭りの日としていたのです。ちょうどこの日、かねてからイエス・キリストが、地上の生涯を歩んでおられた時に、自分が十字架について死に、三日目に復活をし、さらに天に昇り、父なる神のみもとに帰った時に、天から聖霊(神の霊)が降り、イエスの弟子たちひとりひとりにとどまると約束し、予言しておられた事が現実に起こり、イエスをキリストと信じる人たちの共同体、後にキリスト教会と呼ばれるものが誕生し、それ以来、キリスト教会では、ペンテコステと呼ばれる過越しの祭りから数えて50日目の収穫感謝の日を、大切な記念日として祝うようになったのです。  今日は、聖霊降臨をお祝いする大切な日です。しかし、あらためて、聖霊降臨をお祝いすると言うことを考える時に、それがどれほどお祝いするべきことなのだろうか、と言うことを考えさせられるのではないでしょうか…。いかがでしょうか。聖霊が、イエスを信じるキリスト者、イエスの弟子たちに降り、与えられた、そして、キリスト者の共同体である教会が誕生したと言うことは、私たちとどのような関わりがあるのでしょうか。日頃、教会に集まる者たちにとっても認識が薄いように思われます。クリスマスやイースターに比べると、ほとんど関心が向かないのが現実…。そして、一般には、全く知られていないのです。けれど、この出来事の意義は、今日を生きる私たちにひとりひとりと深い繋がりがあり、大きな影響を与えているのだと言うことを共に覚えたいと思います。  聖霊降臨は、この世界の人間の歴史を変える大きな出来事なのです。その影響は、今や、世界の至る所で見ることが出来るようになっているのです。少なくとも、今ここにいるあなたは、その人生において、多大な影響、いや恩恵を受けていると言っても言い過ぎではないでしょう。聖霊降臨は、この世界に、そして私たちに何をもたらしたのでしょうか。一番大きなものは、イエスの弟子たちの生き方に変化をもたらしたことです。彼らが、命懸けでイエスの弟子として生きるようになり、イエスを神とし、その教えを従うべきものとして語り、宣べ伝えるようになったと言うことです。そして、さらに、彼らの宣べ伝えたことを信じて、同じように生きる人が起こされ、それが海を越え、時を越えて、世界中に広まっているのです。しかも、それが単に数の広がりだけにとどまらず、質とでも言うのでしょうか、それを信じる人だけにとどまらず、イエスの弟子たちが生き、表したイエスの教え、生き様は、全ての人の心に影響を及ぼし、人の人生観、倫理観、世界観、文化に変化をもたらし、豊かにして来たのです。今、イエスが示した生き様、それに基づいた教えは、私たちが生きる世界に無くてはならないもの、不可欠なものと言っても、言い過ぎにならないでしょう。  彼は、愛することを説きました。互いを赦し、愛して生きること、様々な違いを乗り越えて、調和し、一つになって生きることを、その生き様を通して説かれました。そのために、十字架について死なれ、三日目に復活なさいました。しかし、それで終わっていたら、2000年を経た今、イエスが説き、示したものは、何一つ私たちには残らなかったでしょう。伝えられて、影響を与え、国や文化の中に浸透しなかったのではないかと思います。それを見、聞いて、それに心動かされ、生きようとした人たち、イエスに倣って生きた人たちがいたからこそ、今日に至るまで、それが力強く残され、伝わって来たのです。そして、そのように人を変えて来たのが、聖霊だったのです。  聖霊は、私たちひとりひとりの内に住まわれて、私たちの心を変え、生き方を変えるお方です。「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(2コリント3:18)聖霊は、私たちを、あのイエスのような者、彼のように生きる者に造り変える方です。人を、イエスのように生きる者に造り変え、生かす方です。聖霊は、あなたを造り変えるのです。イエスのように生きる者に。  聖書は、天地の創造主である神が、人間を救い、世界をお救いになると言うことが描かれ、教えられています。神が、人間の歴史の中で、人間とこの世界を救うために働いて来られたことが証しされているのです。それが聖書が証しする中心的テーマです。聖書が証言する救いは、神が人を、そして世界を救われると言うことは、実に豊かな広がりを持つものです。それは、ひと言で言い切ることが出来ないほどに、複雑で、豊かなものです。しかし、今日、その全体ではありませんが、大切な部分の一つを共に覚えたいと思います。救いとは、人がイエスのように生きる者に造り変えられることです。あなたが、イエスのように生きる者に、心から、魂から造り変えられることです。  では、イエスのように生きる者とは、何でしょうか…。今日、共に開いております、コリント人への手紙第一、パウロと呼ばれるイエスの弟子であり、宣教者が記した手紙、紀元53~55年頃に書かれたとされる手紙の中にある言葉に注目したいと思います。彼は、ここで、「さらにまさる道を示してあげましょう。」と言い、続けて「愛」について記しています。「さらにまさる道を示してあげましょう。」別の翻訳で見てみますと、「あなたがたに最高の道を教えます。」と訳されています。この「さらにまさる道」、「最高の道」すなわち、それは「愛」、「愛する」と言う道、生き方です。これこそが、イエスのように生きると言うことです。  聖書が説く救い、神があなたに与えようとしている救いは、「最高の道」、「愛する道」、「イエスのように生きる道」、その道に、あなたを歩ませることです。その道に歩ませるために、聖霊があなたの内に住み、あなたを日々造り変えるのです。想像してみて下さい。あなたが「最高の道」、「愛する道」、「イエスのように生きる道」に生きている姿を…。それは、どんな姿でしょうか…。その姿をパウロは、次のように記し、明らかにしています。「愛は、寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。」(:4~7)いかがでしょうか…、「最高の道」、「愛に生きる道」、「イエスのように生きる道」は、このような生き方です。この言葉を読みながら、ふと思うことがあります。それは、「最高の道」、「愛に生きる道」、「イエスのように生きる道」は、それほど派手な道ではない…、むしろ、どちらかと言うと地味な道だと言うことです。もっと特別で、どこかキラキラと輝いていて、皆が見て憧れるような生き方と言うよりは、目立たない、ごく普通の、日常の中にあることなのです。何か特別な事業を立ち上げたり、特殊な状況に身を投じたりする必要はありません。大金をかけ、派手な広告を出す必要もありません。強力な組織、建物、設備も要りません。知識、学歴、地位もいらないでしょう…。いつもの場所で、いつも一緒にいる人たちの中で、いつものあなたが、ちょっとした日常の中で、ちょっとしたことをするだけなのです。もしかしたら、何もしないかも知れません…。積極的に何かをしているようには見えないことさえあります…。「すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます…」とは、憧れを抱くような姿ではありません…。パウロは、愛とは、イエスのように生きる道とは、そのようなものだと言うのです。目立たない、日常的なこと、1~3節に記されているような、誰が見てもすごいと言いそうな生き方と見事に対比させながら語ります。  けれども、知って下さい。この目立たない、日常のことこそ大切なのです。ここが変わることが何よりも大切なことです。なぜならば、私たちの人生は、99%、このような平凡な日常だからです。ここが変わること、ここが「最高の道」と呼ばれ、愛に生きる場所となるならば、イエスのように生きるならば、あなたの人生は確実に変わります。しかも、変わるのは、あなただけの人生だけではありません。あなたが変われば、あなたの隣人、周りのコミュニティ、そして世界が変わるのです。このようにして、あなたを変え、隣人を変え、コミュニティを変え、世界を変える…、これが神が願い、今も進めておられる神の業、神の国の業なのです。「最高の道」、「愛する道」、「イエスのように生きる道」、なのです。神は、是非、このことを、あなたから始めたいと願っておられるのです。あなたから始めたいのです。神は、あなたに注目し、あなたに語り、あなたを導き、あなたを変えるのです。隣の人ではありません、あなたです…。あなたを煩わせるあの人ではありません…、あなたなのです。あなたが変わらなければ、何も変わりません…。どんなに叫んでも、吠えても無駄です。  けれども、あなたが変わることほど難しいことはありません。それは、あなたが、私たち自分自身が、一番良く分かっているのです。神は、今日、あなたに語りかけておられます。あなたを、「最高の道へ」、「愛する道へ」、「イエスのように生きる道へ」、導こう、そう言って、あなたを招いておられます。あなたが、イエスのように生きるようになれば、愛する道を歩むようになれば…、変わります。何もかも…。しかし、あなたは、それを望まれるでしょうか…。必要だと思われるでしょうか…。  「最高の道へ」の渇き、「愛する道」を望む、「イエスのように生きる道」に憧れること、これこそ今日、神があなたに与えたいと願っておられることです。もし、あなたが、この道に渇き、願い求めるならば、必ずそれは、あなたの内に実を結ぶようになります。神が、聖霊を通して、それをあなたにお与えになります。イエスは、御自分の弟子たちに向かって、このような約束を与えて下さいました。この言葉をもって、祈りをささげたいと思います。  「わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」(ルカ11:9~13) 【祈 り】   天の父なる神様。あなたは、今日、私たちを招いておられます。「最高の道へ」、「愛に生きる道へ」、「イエスのように生きる道へ」、私たちの幸いのために、あなたは、私たちひとりひとりを招かれます。どうか、この道に生きることを、私たちに願わせて下さい。今日、へりくだって、あなたの御声に耳を傾けて、渇き、求めることが出来るように導き、助けて下さい。どうか、私たちの人生を、私たちを変えて下さい。救い主、イエス・キリストによって祈りをささげます。 アーメン。

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