イエスの風 No,47

最終更新: 2019年12月7日


 「生きる苦悩は、愛することによって救われる」先週、汐留にあるパナソニックの美術館に出かけて行き、大好きな作家ジョルジュ・ルオーの展覧会を観て来ました。ミセレーレ(慈悲を)と言う版画作品集の作品がいくつか展示してありました。モノトーンで、生きる苦悩を表現した作品が並ぶ中、母と子が抱き合い微かにほほえむ姿がありました。暗闇に、ふっと光る灯火のように見え、そして暗闇に負けない力強さをも感じさせる作品に心打たれました。作品のタイトルにこうありました。「生きるとは辛い業、でも愛することができたなら、なんと楽しいことだろう」生きる悩み、苦しみは、どう言う訳か、しばしば私たちの人生に訪れ、居座ります。救いは何処にあるのかと途方に暮れる…。そのような中、主イエス様は、私たちの心に小さな灯火、誰にも消すことの出来ない光を灯して下さる。イエス様こそが、その光として、私たちの所に来て下さったのだと信じます。ルオーは、そんなことを数々の作品の中で描いているように感じました。(12月9日まで展示はやっているようですので、お勧めです。)

 今週も私たちは、様々な所を通らされるでしょう。けれど、勇気を失わないように。イエス様が共におられますから。大切な今日という日に救いがありますように。

 主イエスが共におられます。「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。わたしは決して、あなたを離れず、またあなたを捨てない。安心して行きなさい。」


マルコの福音書12章28~34節「美しく生きよう」


 「うつくしいもの」という本のタイトルが目に留まり、手に取りました。八木重吉の詩集でした。いくつも心に惹かれる詩がありました。その中でも特に心に響いた言葉がありました。

「*いきどおりながらも うつくしい わたしであろう

*哭(な)きながら 哭(な)きながら うつくしい わたしであろう」

(*いきどおる…はげしく腹を立てる *哭く…大声で泣く)

 美しい人になる、美しく生きることに憧れます。人から見られてとか、自分が見てとかは、もちろん、神様の前に美しい人、美しく生きること…。日々の自分自身を振り返る時、ため息が出てしまうことがある。心の中に秘められた思い、人に知られないようにして来た事…、誰も知らないけれど、自分だけは知っていることがあります。自分さえも気付かない、一瞬のことですっかり忘れてしまっているようなこと、全てをご存知の神様だけが知っておられることがある…。どんなに取り繕い、体裁良く整えて見せ、他人の非を責めて見ても…、誤魔化せない私が居る…。

 美しいことへの憧れは、神様が私たちに下さる賜物ではないかと思います。この世界を創造された神様は、この世界が美しいものであるとなさいました。この世界は、神様にあって美しいのです。神様は、この世界が美しいものであるように望んでおられる…。私たちの美しさへの憧れは、そこから生まれている…。


 ある律法学者が、イエス様の所へやって来た。イエス様が、エルサレムにやって来て、宗教家、指導者たちと厳しい議論を交わしていた。その中で、イエス様がふっかけられる難問、非難に見事に応える姿を見て、やって来た。「見事に…」それは立派で、美しいと言うこと。彼は、イエス様に美しさを見た。そして、訊きたくなった。「すべての中で、どれが第一の戒めですか。」(28)イエス様の美しさを見て、惹かれた。この人の言うことなら聞いてみたいと思ったのでしょう…。何が一番大切なことなのか…。

 私たちの日々は、知らないうちに様々な忙しさ、日々の煩いに押し流されてしまい、何だか知らないうちに、本当に大切なことを見失ってしまうのです。一番大切なことが、数々の大事なこと、そうでもないけれど気になることに埋もれてしまっているのです。知らないわけではない…、良く知っているはずなのだけれど…、どう言う訳でしょう…。

「どれが第一の戒めですか」するとイエス様が答える。「第一の戒めはこれです。『聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』第二の戒めはこれです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。』これらよりも重要な命令は、ほかにありません。」(29~31)

「戒め…」それは、美しく生きる道。美しい神様が、創造された美しい世界が、それを最大限に表すための道。美しさの源は、神様にある。美しさの基準は、神様がもっている。本当の美しさを知っているのは、神様。そして、神様が示し、望まれる美しさは、「愛する」こと。人は、愛するために存在している。神様を、自分を、隣人を…。


 「愛する」ことは、神様のいのちに生きること。「愛する」ことは、神様から生まれ、流れ出て、神様の御許に戻って行く…。神様、自分、隣人を愛すること、それはそれぞれに区別されたり、対比させたりするものではなく、全ては一つのこと、一つの繋がり、流れの中にあることです。神様を愛することは、自分を、そして隣人を愛すること。自分を愛することは、隣人を、そして神様を愛すること。隣人を愛することは、自分を、そして神様を愛すること…。

 イエス様はおっしゃった。「ゴチャゴチャ説明する必要は無い、ただ愛せ。愛を受け取り、愛せ。」生きる意味は、愛することを学ぶこと、人生は、いかに愛するかを学ぶために与えられたわずかな自由な時間…(ピエール神父)。「一番大切なことは、愛すること。それ以外にない。」

 律法学者は、イエス様のことばに見事に共鳴した。「先生、そのとおりです。主は唯一であって、そのほかに主はいない、とあなたが言われたことは、まさにそのとおりです。そして、心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛すること、また、隣人を自分自身のように愛することは、どんな全焼のささげ物やいけにえよりもはるかにすぐれています。」(32、33)するとイエス様がこう言われた。「あなたは神の国から遠くない。」(34)不思議な言葉です。「神の国から遠くない」どう言うことでしょう。「遠くない」とは、「近い」わけではない、「中に居る」のでもない…。でも、「離れて」いない…。「遠くない」とは、何でしょう…。正しい答えを知っていることは、愛することではない…と言うことでしょうか。私たちは、正しい答えを知っていても、必ずそれを行っているとは限らない…。悲しいことに、持っている答えと生き方が矛盾してしまうのです。この会話を最期に、あれほど厳しくイエス様に質問を浴びせて来た人々が黙るようになった…。けれど、その沈黙は、イエス様に心を寄せるようになった訳ではなく、数日後、イエス様を捕らえるためにやって来て、十字架に死に追いやって行くのです。

 

 「神の国から遠くない」イエス様は言われた。正しい答えを知っているだけでは…。イエス様は、知っておられた。人は、どんなに正しい道を知っていても、それではどうにもならないことを…。「神の国」それは、美しい世界。神様が創造された世界。神様の心(みこころ)が行われる世界。「愛する。美しく生きる世界。」しかし、私たちはそこに生きることが出来ない…。私たちは、知っている。「愛することが出来れば、それでいい。」でも、私たちは思う…。「そんなことは出来ない。愛することが出来るなんて信じられない。愛したくない。」

「あなたは神の国から遠くない」そう言って、イエス様は、十字架に向かって行かれた。そう、私たちを神の国の近くに、その只中に招き入れるために、愛さない、愛せない私たちの罪のさばきをその身に引き受け、苦しみ、死んで、よみがえって下さった。それは、ひたすらに私たち人間を愛された愛の証し。イエス様は、私たちを愛し貫き、今日も愛して下さる。イエス様は、神の国を携えて、ここに来て下さる。「あなたは神の国から遠くない」と言われたお方は、神の国となり、私たちの只中に住まわれる。


 今日、主イエス様は、私たちにこう言われる。「神の国は、あなたがたのただ中に在る。」

イエス様は、私たちの中で、「愛」となって生きて下さる。そして、神様の戒めの中に生かして下さる。だから今日、私たちは、美しく生きることが出来るのです。

「*いきどおりながらも うつくしい わたしであろう

*哭(な)きながら 哭(な)きながら うつくしい わたしであろう」

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