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執筆者の写真じょ〜じ

イエスの風 No,89


マタイ福音書2章1~12節、イザヤ60章1~6節

「希望の光に導かれて」 

 新年の抱負を漢字一文字で表すとしたら、どんな字になるだろう…。「信」私は、そう思った。「信じること」を抱負にしたいと思う。信じる心を持って生きたいと願う。

 信じられるものを見出せること。信じる心を持って、生きることが出来るのは幸せなこと。私たちには、信じる心、信仰が必要だ。聖書は、私たちを信仰に導くために書かれた。約1600年の歴史の中に生きた人々が記し、約2000年に近い年月読み継がれ、語り継がれた物語と言葉。聖書が記されたのは、私たちの魂に信じる心を呼び覚まし、生かすため。今日を生きる道筋を照らす光を持たせるため…。

 暗闇と思える世界で、雲の上に輝く光を見させてくれる。黒く厚い雲の上には、いつも太陽の光が輝いているように、信じ難い時に、それでも神の最善を信じる。神を信じる。希望があると、すがるように…。

「イエスがヘロデ王の時代に、ユダヤでお生まれになったとき、見よ、東の方から博士たちがやって来て、こう言った。『ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちはその方の星が昇るのを見たので、礼拝するために来ました』」(1,2)

 暗闇のような時代、神の救いは何処にあるのかと人々が嘆き、諦めに近い心で生きて居た。王は神の心から離れ、暴君として君臨していた。ユダヤ人ではない、異教の人々が、救い主誕生の知らせを受け、遠く旅をして人々に告げなければならないような時代だった。

 星を見てやって来た東方の博士たち。彼らは、星を見て、星に導かれてやって来た。遠い国の片隅に生まれた幼子を探して…。彼らは、一体何を頼りに旅をして来たのだろう。何を根拠に。想像をすれば簡単に分かることではないか。砂漠に落ちている砂金を見つけるようなこと。今の時代から考えれば、途方に暮れてとっくに諦めてしまうようなこと。しかも、探し当てるだけでなく、その幼子が王であるとし、その前にひれ伏して礼拝し、大切な宝物をささげた。私たちは、彼らの中に信仰の光を見る。福音書記者は、異教の博士たちをユダヤの暗闇を照らす一筋の光、希望の光として描く。この博士たちの訪問と礼拝を絵画で表現したらどんな風になるだろうか…と想像する。おそらく、博士たちの礼拝の光景の周りには、重く立ち込める不穏な雲、暗闇を描くことになるだろう。あまり明るく、楽しい絵にはならないと思う。福音書記者は、このあとすぐに、歴史に残る幼子の大虐殺と言う悲しい出来事が記している。こんな悲しい出来事がどうして起こるのか…。神が居るならどうして…。理不尽な出来事がたくさんあるこの世界の中で、立ち込める暗闇の中で私たちはもがき、苦しみ、呻く。倒れ伏し、「主よ…」と力なく祈る。

 博士たちの礼拝は、この暗闇の中に灯された光…。頼りない、何の力もない、生まれて間もない幼子を王として礼拝する。信じて。神を信じて。未来を信じて。光を、希望を信じて、生きる姿。神が博士たちを通して語る。「わたしを信じなさい。目を上げよ、絶望するな。希望の光は灯されている…」

〜祈 り〜

 「イエス様、私たちの希望の光。どうか、私たちを救って下さい。この苦しみの暗闇から解放して下さい。私たちを絶望させないで下さい。イエス様、あなたが私たちの信仰。あなたを信じて生きることが出来るように支えて下さい。信じる心を与えて下さい。」

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