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イエスの風 No,83

 暑い日が続いています。お変わりないでしょうか。あっという間に8月です。4月から始まったグリーフケアの学び、学期末試験の代わりにレポートを提出し、私も本日より夏休みです(笑)。と言っても、日々の仕事は変わらずにありますが…(汗)。暑さ、コロナ…色々と心配なことは尽きませんね。それでも今日、私たちの内に与えられているいのちに感謝することが出来ますように。


ヨハネ福音書6章1~15節・詩篇145篇・2列王記4章42~44節「どこからパンを…日毎の糧を今日も」


 私たちは生きて居る。いのちは、今ここにある。いのちとは、何か。色んな人が色んなことを言う。「時間、鼓動、呼吸…」それは、ひと言で言い表すことが出来ない。この手の中に収めることが出来ない。大切なものでありながら、一番大切なものなのに、自分ではどうすることも出来ないもの…。私たちにとって大切なものは、ほとんど、自分の手に治めることが出来ない。

 「どこからパンを買ってきて、この人たちに食べさせようか」(5)

 主イエスは、ご自分を頼り集まって来た人々をご覧になり、一緒に居た弟子、ピリポに言われた。この時、すでにご自分の中では、何をするのかを決めておられたが、彼を試すために言われた。「足りない…」ピリポは答えた。そのやり取りを聞いていたもう一人の弟子、アンデレは、「ここに、大麦のパン五つと、魚二匹を持っている少年がいます。でも、こんなに大勢の人々では、それが何になるでしょう」主イエスは、一体何を試されたのか…。

主イエスは、時に私たちをお試しになる…。私たちは、試されていると感じることがある。目の前に試練が迫る。自分の手に負えない出来事が…。どうやって乗り越えようか。どうしたら解決出来るだろうか…。目の前に立ちはだかる壁の大きさに途方に暮れてしまい、立ち竦んでしまう。「これじゃぁ足りない…。これが何の役に立つだろう…」試練の中で、自分の限界を知らされる。私たちの周りには、私たちの手ではどうにもならないことが山のようにあるのだ。私たちが生きて居ること、このいのち、それは他のどんなことよりも大切なもの、しかし、どうすることも出来ないもの…。私たちは、いのちを前にして、ただ神に祈ることしか出来ないのだ。  

 「どこからパンを買ってきて、この人たちに食べさせようか」「私たちにはどうすることも出来ません…」主イエスは、弟子たちを試された。そして、彼らは合格した…。自分の限界を認めた。私たちは、自分のいのちすらどうすることも出来ない。自分の手の中を見て、「足りない…、これが何になるだろう」と言うしかないのだ。

 「『人々を座らせなさい』~そうして、イエスはパンを取り、感謝の祈りをささげてから、座っている人たちに分け与えられた。魚も同じようにして、彼らが望むだけ与えられた…」(10、11)主イエスは、持って来られたパンと魚を手にとって感謝の祈り、祝福して、それを分け与えられた。弟子たちは、その姿をじっと見ていた。パンと魚を配りながら、そこで起こった出来事を見守っていた。福音書を記した弟子は、このことを「ユダヤ人の過越の祭り」と関連づけながら読者に伝えようとしている(4)。「過越」それは、いのちの祭り。神の民にいのちがもたらされたことを記念し祝う祭り。救いを祝う日。

 「救い」、それは、いのちがもたらされること。主イエスは、いのちの糧をお与えになる。私たちにいのちを与え、生かす、いのちの源、いのちの主…。今日、主イエスは、あなたを生かしておられる。あなたが生きて居るのは、主イエスの救い。その手の業によること。私たちは、自分のいのちも、人のいのちも、どうすることも出来ない。生かすことは出来ない…。いのちは、私たち自らの手でコントロールすることは出来ない。

 今日も私たちは、主イエスに感謝する。いのちを与え、いのちの糧を与え、生かして下さる主に。今日の食卓に、パンを取り感謝の祈りをささげる主イエスがおられる。


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