4月から新しい歩みを始めました。上智大学にあるグリーフケア研究所と言う所に入学し、学びを始めました。新しいことを学ぶことが出来ると言うことは、嬉しいことです。何か自分の中に新しく始める可能性があると思わせてくれて…。自分も捨てた者じゃ無い…などど思えたりして(笑)。
大切なものを失った悲しみに寄り添う…、そんなことを自分が出来るのかどうか。選んだ道の重さ、大きさに圧倒される思いです。自分は相応しくないのでは…と疑いの心が起こります。けれど、そのような疑念に勝って、私を突き動かすものがあるのです。私が憧れる方、私が信じるあの方は、その道を歩まれた…。私は、ただ、あの方に少しでも近づくことが出来ればと願う。この思いが、私をこの道へと駆り立てるのです。3年間の学びとなります。全うできるのか…、そんなことは分かりません。けれど、たとえゴールに辿り着くことが出来なかったとしても、それが何でしょう。そこに向かって、目指して走るしかないのです。結果はともあれ、一心に走ることに意味があると思うのです。
今週も、あなたの内に、キリストのいのち、復活のいのちが豊かにありますように。主はあなたと共に生きて居られます。そう信じて祝福を祈ります。
マタイ福音書28章16~20節
申命記4章32~40節
「わたしは共に居る」
「十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示された山に登った。そしてイエスに会って礼拝した」(16、17)
弟子たちは、よみがえられた主イエスにお会いした時、礼拝した。礼拝、それは主イエスにお会いすること。私たちは、主イエスに会い、主イエスを礼拝する。主イエスと共に居て、共に時を過ごす。これが、今、私たちに起こっている現実。私たちは、今ここで主イエスに会い、主イエスを礼拝している。私たちが居るここは、ガリラヤ、イエスが指示された山なのだ。
「ただし、疑う者たちもいた」弟子たちが礼拝した時、疑う者たちがいた…。これは、驚きつつも、どこか慰めを感じる記述である。主イエスは、疑う者たちの前にも居て下さる。共に居て下さるのだ。私たちには、主イエスは居ないと感じてしまう時がある。本当に居られるのだろうかと疑いの心を向ける時がある。たとえそのような時でも、主イエスは私たちと共に居られる。私たちの疑い、不信仰によって消えてしまわれるような方ではない。むしろ、私たちの存在よりも確かなのだ。私たちの主は、「わたしは居る」と言われる方。信じる者にも、疑う者にも等しくご自分を現し、近づいて来て言われる。
「わたしには天において地においても、すべての権威が与えられています。〜見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」(18~20)
それは、圧倒的な迫りを持った言葉、私たちの疑いなどで揺るがされることがない力強さを持っている。疑いも不信仰も包み込んでしまう懐の深さがある。「わたしは決してあなたを離れず、またあなたを捨てない」(ヘブル13:5、ヨシュア1:5、9)「いつもあなたがたと共に居る」私たちの主は、いつでも、この言葉をもって私たちを励まして下さる。大切な時に、私たちが新しく何かを始める時、一日の始まり、明日を思い煩うとき、恐れを抱く時、疲れ果てた時に…。いつも、この言葉が響いて来る。「いつも、共に居る」私たちは、今日もこの言葉の響きの中に生きて居るのだ。この言葉と共に、主イエスの臨在がある。この言葉は、私たちを主イエスの現存に目覚めさせてくれるのだ。
主イエスは今日、私たちの目を覚まさせようとしている。「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともに居る」そして、主イエスと共に居るように生きることを励ましている。いや、そうではなく、共に居るように生きるのではなく、私たちを、共に生きるように励ましているのだ。「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子とし、父、子、聖霊の名においてバプテスマを授け、わたしが命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい」主イエスは、心から願う。この世界中の人と、共に生きること。この世界が、主イエスと共に生きる世界になることを。世界中の人が、主イエスが共に居ると言うようになることを…。主イエスが共に居る世界、それはどんな世界か。「互いに愛し合う世界。互いが大切にし合う世界。共に生きる世界…」主イエスは、その世界を「天の御国」と呼ぶ。
主イエスは、新しい世界、「天の御国」をお始めになった。主イエスの目の前に居た11人と一緒に生活を始めた時に。彼らが主イエスと共に歩み始めた時に、彼らは主イエスの弟子と呼ばれるようになった。彼らは、洗礼を受け、主イエスが生き様に倣って生きるようになった。その時から、そこは「天の御国」となった。主イエスと共に居る生活を始める時、そこは「天の御国」と呼ばれる。そうやって「天の御国」は始まる。
「わたしは共に居る」今日、主イエスは、私たちを励ましておられる。今、ここに「天の御国」がある。あなたが行く所は何処でも「天の御国」と呼ばれる。私たちは、今日、ここで主イエスと共に生きる。主イエスの弟子となり、主イエスの心を生きる。「天の御国」に生きて居るのだ。
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