「やられたら、やり返す…倍返し…」少々話題になっていたドラマの最終話を見ました。以前のシリーズは、見たことがありませんでしたが、今回のシリーズの途中からチラチラ見るようになって愉しみました。まぁ、遠山の金さん、水戸黄門のような、最期に悪者が裁かれる的な話で、見ていてストレス解消になりました…。このドラマを愉しんだ裏には、スッキリしないことが多い現実があるのです。なので、せめてドラマでは…と思うのでしょう。主人公の真っ直ぐな生き方に心を探られます。自分はこんな生き方してるだろうか、出来るだろうか…と。心の何処かに後ろめたさや闇を感じている自分は、こんな風には出来ないなぁ…と、ドラマを見ながら、心の中で呟きます。そして、天を見上げて「主よ。あわれみたまえ…」と祈るのです。
どうか、今週もあわれみ深い御父の温かな御腕の中に憩い、癒されますように。父の忍耐と赦し、あわれみ深さを映し出す、月明かりのように生きることが出来ますように。
マタイ21章28~32節「父の願ったとおりに…」
「どちらが父の願ったとおりにしたのか」主イエスは、お尋ねになった(31)。「どちらが正しいか」ではなく、「どちらが父の願ったとおりに」と。「父の願い…」主イエスの関心は、いつもここにある。父の心にかなうこと、父の望みを果たす…それは主イエスが一番大切にしておられること。「父の願い…」
主イエスが言われた「父の願い、神の願い」とは、何か。洗礼者ヨハネがその道を説いた。「悔い改め」自らの罪を認めて、父に立ち返ること…。自分の罪を認めて、父に立ち返ることは、本当に勇気の要ることだ。私たちは、自分の罪を認めること、告白すること、それを恐ろしいことだと思ってしまう。赦してもらえない、厳しく罰せられる、見捨てられてしまう、愛を失ってしまう…そういう恐れがつきまとう。だから、私たちは簡単に自分の罪を認めようとはしない。悔い改めることが出来ない…。
けれど、私たちは今日、「悔い改め」のイメージを一新しなければならない。「悔い改め」とは、父の願いを叶えること。すなわち、父の愛を信じ、赦しを信じて、あわれみ深い懐に飛び込むこと。放蕩息子が父の腕に抱かれ、祝宴の席に導かれること。父の願いは、あなたを愛する子にし、共に生きること。「悔い改め」それは、「愛する子よ。わたしと共に生きよう」と言う父の招きの声に従うこと。
私たちは、いつの間にか、父を見失ってしまった。父の愛を信じることが出来なくなってしまった。「子よ。今日、ぶどう園に行って働いてくれ」と言われて、それが何を意味するか分からない。父が、子にぶどう園に行って働くことを願う…。ぶどう園は、父が大切にしているもの。愛する子と共有したい大事な宝。父は、自分の大切なものを愛する子に委ねようとした。「子よ。今日、ぶどう園に行って働いてくれ」それは、父の愛の表現。「あなたは、わたしの愛する子」と呼ぶに等しいこと…。けれど、私たちは、この愛から生まれた言葉を聴き取ることが出来なくなっている。父の愛を信じることが出来ない…。私たちの日々は、父の愛を知らず、味わわず過ぎて行く…。
「まことに、あなたがたに言います。取税人たちや遊女たちが、あなたがたより先に神の国に入る。なぜなら、ヨハネがあなたがたのところに来て義の道を示したのに、あなたがたは信じず、取税人たちや遊女たちは信じたからです。あなたがたはそれを見ても、後で思い直して信じることもしなかった。」(31-32)
「神の国」は、父の愛を信じ、味わって生きること…。主イエスは、神殿の中で、自らを神の国に近い者とする祭司長や民の長老たちと話された。その時、彼らは、自らの正しさに溺れ、父のあわれみにすがることを忘れていた。父の愛を見失っていた。主イエスは、彼らが父の愛に立ち返ることを願われた。取税人や遊女に洗礼が授けられる姿、罪赦され、神の子とされる姿に表された、父のあわれみ深さ、懐の大きさを信じ、身を委ねるようにと…。
「父の願ったとおりにしたのは誰か」主イエスは、お尋ねになる。父の愛を信じたのは誰か。父の懐に飛び込んだのは誰か。「子よ。今日、ぶどう園に行って働いてくれ」今日、父の声が響いている。「子よ」と、あなたを呼ぶ声がする。あなたを愛する父が、御許に立ち返り、その愛を味わい、喜び生きるように…。
「父の願ったとおりにしたのは誰か」
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