私の大好きなGospelの歌詞に♪右も左も閉ざされたなら、天を見上げよう!Hold on !!♪と言うのがあります。新しい歩みを始めてから得意になったことがあります。それは、天を見上げること…。新しい歩みは、ある意味で、目に見える安定を保証された生活から離れ、先の見えない日々です。ふと、今まで歩いて来た道を振り返り、今自分がここに居ることを見ると、「よくもまぁ今日まで生きて来れたものだ…」と言わざるを得ません。そして、怖くなります。「これから先は大丈夫だろうか…」自分の手許、足下を見ているだけだと、一歩も前に進めなくなります。恐れの風の中で立ちすくんでしまいます。息苦しくなります…。そんな時、天を見上げます。深くため息をつきます。溺れかけて、死にそうになって、必死にもがいて息継ぎをしようとしているかのように…。「天の父よ…」大きく広い空よりも、もっと大きな方、広く、深く、高い愛で包んで下さる方。私の生きるも死ぬも、全てを御心のうちにおいて下さり、御旨に抱きしめて下さる方が居る。だから、今日も前に向かって歩いて行くことが出来ます。
さあ、空を見上げ、天を仰いで、この道を行きましょう。祝福を祈ります。
マタイによる福音16章13~20節「あなたはわたしを何者だというのか」
「あなたはメシヤ、生ける神の子」私たちは、主イエスに出会うより先に主イエスが誰であるのかと言うことを知らされている…。そこから、今の歩みが始まっている。しかし、弟子たちは、何も知らない所から始まった。そして、主イエスとの出会いの日々を積み重ね、自らの目で見、耳で聴き、共に歩み経験した様々な出来事の中で、遂に自ら答えを出さなければならない時がやって来た。主イエスが彼らにお尋ねになったのだ…。「あなたは、わたしを何者だというのか」
しかし今日、主イエスが私たちにもお尋ねになる。「あなたはわたしを何者だというのか」私たちは、この福音書を読み続け、主イエスのなされた御業を見、語られた言葉を聴き続けている。そして、主イエスは、私たちにお尋ねになる…。「あなたはわたしを何者だというのか」私たちは、答える。「ああ、分かっています…。あなたは、生ける神の子、キリスト、メシヤです」けれど、それは、本当に答えになっているのだろうか。主イエスは、満足なさるだろうか…。主イエスは、私たちにお尋ねになる。「あなたはわたしを何者だというのか〜。あなたは、今日までわたしと共に歩んできた。わたしの業を見、わたしの言葉を聴き、わたしが居ることを経験してきた…。それをもって、あなたはわたしを何者だというのか」私たちは、ゆっくりと時間をかけて振り返って見よう。主イエスと共に歩んできた日々を…。主イエスは、あなたに何を語り、どんなことをなさったのか…。そして、私たちは、「あなたはわたしを何者だというのか」と言われる主イエスに何と答えるのだろう…。
「あなたはメシヤ、生ける神の子」(18)ペテロは答えた。ペテロは、期待と信頼を込めて言った。彼は、主イエスを喜ばせようとしてのではない。彼の感じていたことを自分の知っているありったけの言葉の中から選び、それを用いて表現した…。「あなたはメシヤ、生ける神の子」この言葉は、ペテロの期待、信頼、思いの全てが詰まった、まさに彼の信仰の告白だったのだ。信仰告白、それは、私たちの期待と信頼の告白。主イエスに対する言葉にならない、言葉を越えた思いの表現…。私たちは、期待と信頼を込めて、主イエスに向かって告白するのだ。「あなたはメシヤ、生ける神の子」そこに込められたあなたの思いはどんなものだろう…。
「シモン、バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペテロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」(17-19)主イエスは、「あなたは生ける神の子キリスト」と答えたペテロに言われた。あなたにこの告白をさせたのは、天の父だ。私たちが今日、主イエスを知り、告白をする信仰の言葉…、それがどこから生まれて来たのか。それは、天の父からの賜物。主イエスは、私たちの告白を聞き、天を見上げ、父なる神をほめたたえておられる。そして、私たちに向かって、期待と信頼を込めて言われる。あなたの上に教会が建ち、天の国の鍵を与えると…。主イエスの信仰の告白。主イエスは、私たちの上に教会を建て、天の国の鍵をお与えになった。
今ここに。主イエスに信頼と希望を告白する私たちを通して、天の国、信仰と希望と愛の世界の扉が開き、その交わりが生まれているのだ。
Comentários