雨が止むと、蝉の鳴き声が聞こえてきました。7月も終わりに近づいて、8月です…。コロナ禍ですっかり生活のリズムが狂ってしまいましたね。再びリズムを取り戻すのには暫く時間がかかりそうです。私たちは、いとも簡単に崩れてしまう脆さを抱えているのですね…。その現実を直視するのには勇気が要ります。自分の弱さを受け止めることは、そう簡単では無いのです。そこに向かうとき、痛みが伴います。逃げ出したくなります。向き合えない、逃げ出してしまう…、そういう時もあるでしょう。けれど、いつか必ず、逃げるのを止めて、向き合う勇気と力が湧いてくる時が来ると信じます。全ての事に時があるのだと…。
主イエスの恵みとあわれみ、力と勇気が、今日あなたに注がれますように。

マタイによる福音13章44~52節「天の国の弟子となった学者」
主イエスは、天の御国のことを自由にお話になる。私たちを取り囲む日常の出来事、様々な情景を取り上げ、譬えながら、生き生きと、リアルに描き出そうとする。
聴いている私たちは、最初は良く分からず、どう言う意味かと問い返さなければならない…。けれど、何度も繰り返し尋ね聞く内に、段々分かるようになり、自分でも何かに譬え、描くようになれるのだ。分かるようになるまで、自分で出来るようになるまで、自分で考え、生み出せるようになるまで…。幾度も繰り返し、問い、聴き、練習し、実践する。今、私たちが身に付けている習慣、知恵、技能、日常生活は、そのようにして得たもの。
主イエスは、どうして天の御国のことを、日常の事に譬えて話されたのだろう。それは、天の御国が、今ここにある日常に繋がっているから。ごく当たり前の情景の中に隠れ、紛れ込んで存在しているから…。主イエスは、何気なく目にする日常の景色から天の御国を想い起こすことが出来るようにされた(からし種、パン種、良い麦と毒麦、畑に隠された宝を見つけた人、良い真珠を探す商人、魚を集める網…)。弟子たちは、何度も繰り返し譬えを聞き、主イエスに意味を問い、学び続けた。そして、遂に「これらのことがみな分かりましたか。」と尋ねられた時に、「はい」と言えるようになったのだ。「こういうわけで、天の御国の弟子となった学者はみな、自分の倉から新しい物と古い物を取り出す、一家の主人のようです。」(52)主イエスから学んだ弟子たちは、天の御国のことを、自分たちの日常の中から想い起こすことが出来るようになった。自分の言葉で、主イエスの譬えを話し、説き明かし、記すようになった。日々の暮らしの中に天の御国を見出し生きるようになった。天の父の御心を想い起こし、天の父の御手の内に、今日を生きるようになったのだ…。
私たちは、何度も繰り返し聴く内に、聴いたことを覚え、そのように考え、自ら語り、生きるようになる…。聴く言葉が私たちを養い、育てる。私たちは、何を聴いて生きているのだろう…。「天の御国の弟子となった学者」主イエスは今日、私たちを御覧になって、こう言われる。今、この言葉を聴いている私たちは、畑に隠された宝を見つけた者のように、良い真珠を見つけた商人のように、主イエスの言葉、天の御国に価値を見出した。今、あらゆる努力と犠牲を払っても、天の御国に生きようとしている。今ここに天の父の愛とあわれみを見出し、信仰、希望、愛を合い言葉にして、日々の生活を営もうとしている。
「天の御国の弟子となった学者」今、私たちは、天の御国の弟子となり、そこに生きることを主イエスから学び続けている。主イエスが歩まれた道に倣い、彼を真似て生きようとしている。
主イエスは、天の御国を仰ぎ見、そこに生き、私たちの目の前で天の御国の中を歩いて下さった。あらゆる言葉を尽くし、天の御国を譬えてお話しになった。その姿、その言葉が、この福音の言葉に、そして私たちの心に刻まれている。私たちは、「天の御国の弟子となった学者」天を見上げ、空の鳥を見る…、道端の花に目を留める…。その時に、私たちが天の父に生かされていることを想い起こすことが出来る。私たちの心に育っている小さな愛の変化に、主イエスのからし種の話が響く…。どんなに小さな存在でも、信仰と希望と愛に生きる者たちが、この世界を変えて来た事実がパン種の話と重なる。私たちは、主イエスの尊いいのちの犠牲により、捨てられるはずのものから、良きものとされた…。
今日、主イエスは言われる。「探し、見つけて御覧。今、ここにある天の御国を。」
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