先日、ある人の話を伺いながらはっと気付かされることがありました。このような困難な状況の中で、私たちは神に「なぜ?」と問いたくなる。「何故、このような苦しみがあるのか…。神は、一体何を考えているのだろう。」けれど、私たちはむしろ、この状況の中で自らに向かって「どう生きるか」を問う必要がある。「神は、このような苦しみの中で、今、如何に生きることを求めておられるのか…。私たちは、如何に生きるべきか。」苦しみや困難が起こる理由は、簡単には分かりません。答えは、単純ではなく、壮大かつ深淵、神秘と呼ぶべきことです。その答えは、永遠に見つからないかも知れません。けれど、「如何に生きるか」と言うことは、今、この瞬間にも答えを出すことが出来ます。いや、むしろ、答えを出さなければ、今を生きることが出来なくなるでしょう。そして、私たちは、「今、如何に生きるか」その答えとして、主イエス・キリストを持っているのです。彼は、私たちにこう言われます。「わたしが道であり、真理であり、いのちです。」主イエスが、今日、あなたのいのちとなって下さいますように。
ヨハネによる福音20章19~23節「聖霊を受けなさい」
「平安があるように…」主イエスの挨拶の言葉。「平安があるように…」主イエスは、何度も私たちに言う。私たちの顔を見る度に…。私たちは、挨拶を交わし、互いを慈しみ、大切にする。「おはよう、こんにちは、さようなら…」そこに、願いがある。祈りがある。「平安があるように」これは、主イエスの願い。私たちに向けた祈り。「平安があるように」主イエスは、私たちに「平安があるように」願っている。主イエスの言われる「平安」は、心の内側、魂のことだけではない。私たちの内側に始まり、周りに拡がって行く…。「あなたがたに、平和があるように」主イエスは、私たちが「平和に暮らせるように」祈る。
「平安があるように」いつの時代も、この祈りは切実だ…。私たちの毎日の祈り、魂の訴えの中に、「平安があるように」と言う願いがある。今日も平安に過ごしたいのだ。世界中が、今も「平安」を求め、呻いている…。主イエスは、私たちの魂の深い渇きを知って、今日も祈りを込めて私たちに語りかけている。「平安があなたがたにあるように」
「主よ。あなたの言われる平安は、どこにあるのでしょう。どうすれば平安になれるのでしょう。あなたはどのようにして、私たちに平安をお与えになるのでしょう。」私たちは、知っている。私たちは、「平安、平和」を願いつつも、それが今ここに見出せないことを…。私の中に「平安」がない。私の中からは「不安」しか生まれない…。言葉では表せない、得体の知れない「不安」が魂の深い闇に棲みつき、うごめいている。だから、心を閉ざしてしまう。心に鍵を閉め、魂の深みにある闇を閉じ込め、見ないでおこうとする…。復活の日、戸に鍵をかけて閉じ籠もっていた弟子たちのように。
「聖霊を受けなさい」主イエスは、恐れで閉ざされた扉を越え、闇の中に入って来て、息を吹きかけて言う。「聖霊」は、主イエスのいのちの息。主イエスは、私たちにいのちの息を吹き込まれた。今日、私たちの内に、主イエスのいのちの息が吹き込まれている。あなたの中に、主イエスのいのちの息がある…。「あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。」それは、「赦し」と言う不思議ないのち。主イエスは、私たちの内に「赦し」を下さった。「罪を赦す」力…。
世界を創造された父である神は、今この世界が赦しであるように願い、主イエスは、罪を赦すため、世界を「赦し」で満たすために来られた。十字架、復活、主イエスが死んでよみがえられたのは、「罪を赦す」ため、私たちを「罪を赦す」者にするため…。私たちは、赦す者。受け入れ難い自分、煩わしい隣人、罪深い人類を赦す…。それは、好き嫌いを越えて、自分で裁くのを止めて、存在をあるがまま、神の手に委ねること…。愛し、慈しみ、憐れみ深く生きること。
「聖霊を受けなさい」主イエスは、いのちの息を吹き込まれた。「聖霊」それは、主イエスのいのちの息。私たちの中に、主イエスのいのちの呼吸が始まった。主イエスがよみがえられた日、「平安があなたがたにあるように」と挨拶をして下さった時から…。この世界に、いのちの息が吹き始めた。あなたの中に、いのちの息吹がある。あなたが誰かを赦そうとする時、そこにいのちの息吹があることを想い起こして欲しい。復活の日は、繰り返す。主イエスは今日、あなたを励ます。あなたの罪を赦し、息を吹きかけ、遣わす。この世界に、あなたとあなたの隣人のために…。「父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わす。」赦しの使者、平安をもたらす平和の息吹にして下さった。
赦しは、痛みを伴う…。まさに死ぬほどの経験。十字架を負う苦しみ。私たちは、赦しのために悩み、涙する…。でも、その苦しさに負けないように…。その戦いの激しさは、他の誰よりも、主イエスが知っている。その身体に刻まれた無数の傷がそれを物語る…。主イエスは、苦しみの中、赦しの戦いを戦い抜いて勝利された今、優しい眼差しで、私たちを見つめて言われる。「平安があなたがたにあるように。聖霊を受けなさい。」
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