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イエスの風 No,66

 4月も半ばを過ぎています。思うように外に出ることが出来ない中、気がつくとすっかり緑が地を覆い始めています。ついこの間まで、地面が見えていた場所が、緑に覆われ、至る所に花が咲いている…。いつもと変わらない日常の景色がそこにあるのです。朝早く、掃除のアルバイトに出かけると、鳥たちのさえずりが今まで以上に響いて聞こえます。朝が静かなのです。いろんな活動が制限されるようになり、人が生み出す喧騒が消えた時、普段は脇に追いやられていた音楽が聞こえ始める。「本当はこうだったのか…。」苦しい状況は続きます。そのような中、私たちは今まで通りを取り戻そうとして頑張っています。けれど、ふと思うのです。私たちの思い描く、今まで通りとは何だろう…。喧騒に飲み込まれ、人と人の間に押しつぶされ、死にたいと思うほどの忙しさ、プレッシャーを感じて生きる世界に戻ることなのだろうか。私たちの願う本当の世界はどこにあるのだろう…。

 どうか、私たちの心と身体、魂が守られ、新しい命の息吹の中で生きることが出来ますように。主イエスのいのちの言葉を贈ります。今は、生みの苦しみ。新しい世界を生み出す知恵と勇気が与えられますように。祝福と守りを祈ります。

 ヨハネによる福音20章19~31節「あなたがたに平和があるように」


 主イエスは、復活なさいました。復活された最初の日の夕方、弟子たちを訪ねて下さったように、今日、私たち訪ねて下さいます。私たちが、扉を閉め、固く鍵を掛け、閉じこもっている時に。家に居る私たちを訪ねて来られます。今、この部屋の真ん中にお立ちになる。「あなたがたに平和があるように…」と言われる。恐れの最中にあって、心の内も、そして一歩外に出ても、恐れの嵐の吹き荒れる中、不安の闇がのしかかって来る中、主イエスの声が響く…。「あなたがたに平和があるように…」主イエスは、何度も繰り返される。「あなたがたに平和があるように」

 そして、主イエスの言葉によって、私たちは目覚める。私が今日、一人で居るのではないと…。私たちは、ずっと忘れてしまっている…。私たちは、一人だと思い込まされ、孤立していると信じさせられている…。でも、主イエスは、私はいつも「私たち」なのだと言うことを想い起こさせようとしている。あなたは今日、ひとりではない…。「私たち」なのだ。

 私たちが信じるのは、主イエスが共に居ること。今日、主イエスが私と共に生きて居られること。主イエスが共に居ることを信じる時、生まれるものがある…。それは、私が「私たちに」なること。まず、最初に、私と主イエスと言う「私たち」。そして、そこから拡がり、私と主イエスと仲間たち、友、家族…、いのちをいただいて生きる全てのもの…。繋がって生きる「私たち」に目覚める。主イエスは、私を「私たち」に目覚めさせるために死んでよみがえられた。

 今日、私たちが共にするこの復活物語は、聞く者を「私」から「私たち」にしようとする。どうして主イエスは、よみがえられた翌週にトマスを含めた弟子たちに再びご自身を現されたのか。それは、トマスも仲間だったから。復活の目撃者として招かれた者だったから。主イエスは、「見ずに信じる者は幸い…」と言いながらも、ご自身を惜しみなくトマスに現した。それ故、トマスは、先に目撃の証人となった弟子たちと共に目撃者になった。主イエスは、トマスを大切な仲間として見ていた。トマスが、他の弟子たちと共に復活の目撃証人として立つことを望まれたから、ご自身を現し、彼に大切な言葉を委ねた。「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。~見ないで信じる人は幸いである。」(27、29)きっと彼は、その後の人生で、この言葉を自らに、そして人々に繰り返し語り続けただろう…。そして、この福音書の物語を聞く者たちは皆、この主イエスの言葉を心に刻み、語り続けた。迫害の最中、人目を避けて集まらざるを得ない中で、その只中に主イエスがお立ちになり、「あなたがたに平和があるように」と言っておられることを信じ、見えざる方を信じ、聞こえざる声を魂に響かせ、互いに励まし、支え合って生きた…。今日ここに集まる私たちも、同じ主イエスの言葉に励まされ、支え合って生きようとしている。

 この困難が続く中、それぞれの私が「私たち」で居るように招かれる…。もう一度、「私たち」であることに目覚めるようにと…。主イエスは、それぞれの家を訪ね、閉ざされた扉を越えて、私の居る場所に来て下さる。「あなたがたに平和があるように」平和は、私だけでは存在しない…。独りで生きると言うことは、空想だ…。現実的には出来ない…。私は、生まれた時から誰かとの関わりの中に生きる。決して独りではない…。平和は、共に居る、共に生きること。そして、それは、互いが共に生きることを許すこと。祈ること。祝福すること。誰かが生きるために労苦すること。平和は、自分と誰か、「私たち」に向かって、「あなたは生きて居ていい…」と言うこと。

 主イエスは、私たちが生きることを願い、私たちにいのちを与える。それは、私が「私たち」になって生きるため。主イエスは、共に生きる力、愛、赦し、祈り…平和を与える方。そのために死んでよみがえられた。そして、今、ここに、私たちを訪ね、私の存在の真ん中に立っている。今、ここによみがえられた主イエスが居る。私たちは、主イエスの名の故に集まり、彼の御名の許「私たち」で居る。今日、私たちは主イエスとお会いしているのだ。

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