作品制作に没頭していて、メッセージの配信が滞ってしまいました…。すでに年も明け、2月です。先週の月曜日から木曜日にかけて、富士の裾野にある修道院に出かけて来ました。説教をする仲間たちと共に研鑽の時を持ちました。同じ志を持つ者たちが寝食を共にし、聖書の言葉を黙想し、語り合い過ごしました。仲間が居ると言うことは、本当に幸いです。神の恵みの賜物です。今日、与えられている友に感謝と祝福の祈りをささげます。祝福がありますように。主が私たちと共におられます。「あなたは、わたしの愛する子。わたしは、あなたを喜ぶ。わたしは、決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。安心して行きなさい。」行きましょう。主の平和の内に。
ヨハネによる福音15章9~17節「わたしはあなたを友と呼ぶ」
「わたしはあなた方を友と呼ぶ。」今日、イエス様が、あなたを見て、嬉しそうな顔をしておっしゃいます。「あなたはわたしの友」あなたは、イエス様の友だち…。友だちがいると言うことは嬉しいこと。友だちに会うことは喜び…。今日、イエス様は、喜んでいます。今、あなたがここに居ることで…。イエス様は、ご自分が持っておられる喜びを、私たちに分かち合って下さいます。今日、一緒に喜びたいのです。友だちになること、友だちが居て、一緒に生きることがどれほど嬉しいことか…。「わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたが喜びに満ち溢れるようになるために、わたしはこれらのことをあなたがたに話した。」(11)
「友」という言葉は、「愛する者」と言う意味です。あなたは、イエス様の「愛する者」。イエス様は、あなたを「愛する者」として選び、「友」と呼ばれた…。とは言っても、なかなか実感のない事です。「私は、本当にイエス様の『友、愛する者』なのだろうか…。」いくら問いかけても、分からない…。愛されていることを試し、証拠を探しても、心の中は堂々巡りを繰り返し、魂は虚しくなり、渇くのです。私の中に、イエス様に愛される理由があるのか…といくら考えても見つからない…。イエス様の愛は、神様の愛。それは理由を必要としない愛、無条件の愛、恵みだから当然なのです。
イエス様は、言われます。「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛した。わたしの愛にとどまれ。(9)〜信じなさい、理由を探すこと、試すこと、証拠を求めることも止めて…。わたしの言うことを信じなさい。わたしを見なさい…。あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選んだ…。」イエス様が、私たちを選んで下さいました。イエス様の前に、私たちが愛される理由は、どうでもいいのです…。いくら考えても分からないでしょう。まして、自分と人を比べ、勝った負けたを決めることは、イエス様に背を向け、恵みの世界を離れ、滅びの道を辿ることです。ますます、イエス様が言われる「愛」は、分からなくなるでしょう…。イエス様は、「わたしの愛にとどまれ。信じなさい…」と言われる。「十分に分からなくてもいい。疑ってもいい。迷っていてもいい。完全に信じられなくてもいい。それでもわたしを信じなさい。」と言われる。
「わたしは、あなたがたを友と呼ぶ」イエス様は、弟子たちを信頼して言われた。十字架にかけられる直前に、いのちを捨てる覚悟を決めて…。「わたしは、あなたがたを友と呼ぶ」イエス様は、覚悟を決めて、あなたにも言われるのです。「わたしは、あなたがたを友と呼ぶ」こう呼ぶ時、イエス様の心は喜びに溢れています。あなたを「友」と呼ぶことは、イエス様にとって大きな喜びです。そして、この喜びを、あなたに分かち合おうとしておられます。あなたも、イエス様が味わっている喜びを味わうように招いておられる。
私たちも、イエス様が味わっておられる喜びを味わうことが出来る。あなたが、誰かを「私の友」と呼ぶ。あなたが「愛する」時です。私たちは、多くの友を得、愛を獲得すれば、喜びに満たされると…信じ込まされている。そして、友を得、気に入られ、嫌われまいと一生懸命になっている。自己愛の奴隷になっている…。しかし、イエス様は、「友になれ」と言われる。私たちが、誰かに自分を「友」として差し出す時、イエス様の喜びが分かる。人を愛する時、イエス様の喜びがあなたの内に溢れるのです。私たちは、神のかたち、イエス様の似姿を持っている。友となり、愛する時に満たされるように造られているのです。あなたは、イエス様の友なのです。
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