季節は巡ります。野に花々が咲き、華やいだ季節から、新緑に包まれる瑞々しい季節に移ろうとしています。近所の御菓子屋さんを通ると、季節にちなんだお菓子が出ていました。今までは、そんなことをほとんど意識しないで過ごしていましたが、歳を重ねたせいでしょか、年に一度巡ってくる季節を味わい愛でたいと言う気持ちが湧いてくるようになりました。視覚、嗅覚、聴覚、味覚…私に与えられた感覚の全てを通して、そして、心、魂に神様が恵みを明らかにして下さいます。毎年、毎年…繰り返し…。
どうか祝福が豊かにありますように。今日も恵みがそこにあります。
「あなたは、わたしの愛する子。わたしは、あなたを喜ぶ。わたしは、決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。安心して行きなさい。」
ヨハネによる福音21章1〜19節「何度でも…」
「またね〜」そう言って、友だちとわかれる。明日か、いつか分からないけれど、再び会うことを願って挨拶を交わす…。愛する者と顔と顔を合わせ、声を聴き、一緒に居たいと願うのは、人の常です。
イエス様は、よみがえられた。福音書と呼ばれる書物は、イエス様の復活の物語を限られた紙面の中で生き生きと描いている。イエス様の最初の弟子たち、使徒と呼ばれる人たちは、イエス様と共に生活をし、復活の目撃者…、しかし、それは単に目撃したと言うことではなく、むしろ体験したと言う方が良いかも知れない…。復活したイエス様と会い、触れ合い、言葉を交わし、食事をし…。イエス様の復活が如何なるものかを経験したのです。イエス様の復活は、彼らにとって豊かな体験でした。言葉で言い尽くし難く、説明が付かないほどに豊かで、心震える出来事…。彼らの中では、それは大切な宝の記憶、語り伝えずにはいられない物語となっていた。
人は、心動かされる出来事に出会う時、大切な経験をすると、この心に物語が溢れて来ます。子どもの頃、嬉しかったこと、一日の出来事を、喜び夢中になって話します。心に物語が溢れているのです。
使徒たちを始めとし、教会は、この体験の物語を大切に語り継いで来ました。教会には、この喜びの物語が溢れていた…。そして、福音書は、それを語り伝えるために書き記されたのです。教会が伝えようとしている信仰とは何か。私たちキリスト者が信じ、伝え、この世界に分かち合おうとしているものは何か…。それは、よみがえられたイエス様との出会いであり、交わり…。すなわち、復活なさったイエス様と共に生きること。イエス様との生活。それは、喜びの物語です。
「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて。このいのちが現れました。御父とともにあり、私たちに現れたこの永遠のいのちを、私たちは見たので証しして、あなたがたに伝えます。私たちが見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えます。あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。」(1ヨハネ1:1〜3)
イエス様が復活なさった…、これは教義ではありません…。どう表現したら良いでしょう…。それは、体験された出来事、物語…、生き生きと私たちの中に息づき、いつでも記憶の中によみがえり、動き出すもの。過去の出来事でありながら、今日ここに起こっている経験なのです…。(上手い言葉が見つかりません…)
この福音書が、言葉を尽くして、何とか伝えようとしていることは、イエス様が墓から出て来られた、生きて居られた…と言う過去のことではない。それは、イエス様が今日、ここに生きて居られ、語り、何かをなさっていると言うこと。イエス様が生きて居ると言うことです。
イエス様は、復活されてから、何度も弟子たちに現れ、彼らを訪ねて下さいました。「その後、イエスはティベリア湖畔で、再び弟子たちにご自分を現された。」イエス様は、復活されてから、ずっと弟子たちと一緒に居られたわけではありませんでした。時々、彼らを訪ね、ご自分を現されたようです…。不思議です…。私は、ずっと一緒に居られたように思っていました。けれど、イエス様は、彼らとずっと一緒に居なかった…。そうする必要がなかった。必要に応じて、彼らを訪ね、ご自身を現された。それで十分だったのです。
イエス様は、いつもは目に見えない…。ずっと一緒に居ると言う実感や体験がある訳ではない…。イエス様が見えるようになったら…、イエス様と共に在ることを体験したい…。そのような憧れを抱くことがある。けれど、現実はそのようなことは滅多に起こらない。むしろ、イエス様が見えない日々、まるでイエス様が不在であるかのように過ごす毎日が続いているのです…。イエス様は、何処に居て、何をしておられるのでしょうか…。これは、私たちには知らされていない、神の国の謎、神秘に包まれているのです。けれど、イエス様は、私たちを訪ねて下さる。ご自分を現して下さいます。その訳は知らされていません…。けれど、イエス様の御心の時に、ご自身を現されるのです。
「わたしは漁に行く…」そう言ってシモン・ペテロは立ち上がり、他の弟子たちもそれに続き、彼らは漁に出かけました。朝食のためです…。しかし、彼らは何一つ捕ることが出来ず、夜が明け始めた…。その時、岸辺にイエス様がお立ちになったのです。「子どもたちよ、食べる魚がありませんね。…舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば捕れます。」
漁に失敗し、朝食べるものが無い…、そんな時にイエス様がお立ちになる。調子の良いとき、人生順風満帆じゃないときにイエス様が現れ、立っておられる…。イエス様に出会うのです。本当に不思議なことです。どうしてなのでしょう。そういうことでもなければ、私たちがイエス様に心を向けないからでしょうか…。私たちの魂は、行き詰まったり、挫折を経験しなければ、私たちを本当に愛して下さるお方に心を開けない…。罪深さを知らされ、無力さに打ちのめされ、沈んで行く時に、初めて、その深いところで、大きな愛、力強い御手で支えられていることに気付かされる…。
主イエスがお立ちになるのです。私たちの人生の岸辺に、イエス様が立っておられ、「子どもたちよ…」と呼びかけて下さる。「愛する子よ」と呼んで下さる。イエス様は、私たちに伝えたいのです。「愛する子よ」この言葉を聞かせたい。あなたが「愛する子」であることを分からせたいのです。そのために、私たちを訪ねて下さる。何度でも…。
私たちは、何度でもイエス様に訪ねていただく必要がある。イエス様は、何度でも訪ねて下さる。あなたは、今日までに何度挫折し、落ち込んで来ただろうか…。無力さに打ちのめされ、罪の底に沈むような経験をしただろう。でも、今日ここに居る。生きている。慰めを受け、罪赦され、癒され、立ち上がって…。
主イエスがお立ちになったのです。イエス様があなたをお訪ねになって、何度もあなたの名を呼び、語って下さった。シモン・ペテロの名を呼び、語りかけられたように。「愛する子よ」と…。あなたに愛を語り、あなたの愛を呼び覚まし、立ち上がらせて下さるのです。「イエスが愛されたあの弟子が、ペテロに『主だ』と言った。」
今日、主イエスは、あなたを訪ねて、岸辺に立っておられます。
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