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イエスの風 No,56

 苦しくて、どうしようもなくなって、天を仰ぎため息をつく時があります。天を仰ぐ気力もなく、うつむいてしまうこともある…。イエス様は、私たちと共に居て下さいます。そして、天を仰ぎ祈って下さいます。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのか…」私たちの魂の叫びを、私たちの存在の最も深いところから、私たちの声となって祈って下さいます。その祈りは、神への全き信頼から生まれます。私たちは、苦しみの中、イエス様の信仰によって支えられ、生きるのです。

 受難週に入りました。聖木曜日、聖金曜日…と続きます。そして、いよいよ復活祭を迎えるのです。どうか、今週、いろんな戦いや試練があるかも知れません。でも、イエス様の信仰によって支えられ歩みましょう。一緒に、この方に信頼して歩みましょう。互いに支え合って…。もし、あなたが倒れたら、私が祈ります。私が倒れたら、祈って下さい。イエス様は、私たちの祈りを聞いて下さいます。私たちのために、今日も執り成しておられます。

ルカによる福音23章1〜49(13〜25、32〜49)節「君もそこにいたのか…」


 高校生の頃、暇をもてあまし、本棚に置いてあった新約聖書を手に取り、初めて福音書を読んだ…。小説を読むように、イエス様の物語に引き込まれた。難しいことは分からない、イエス様の言っていること、教えを理解出来たわけではない。けれど、そこに描かれているイエス様の生き様に心惹かれ、心にスーッと染みこむように、イエス様を親しく感じた…。

 イエス様が捕らえられ、裁かれ十字架にかけられる場面、何とも言えない気持ち、悲しいというか、やるせない思い、心の中で「何で…。どうして、この人が死刑に…、おかしいよ…」と繰り返していた…。

 福音書は、不思議。読む者を、その世界に引き込む…。そこに描かれる世界が、今ここにやって来て、目の前で出来事が起こる。福音書は、イエス様の物語、イエス様の出来事、生きた証し…。福音書は、イエス様を見せる。イエス様を解説しようとはしない。聴く者をイエス様と出会わせる。福音書が読まれる時、イエス様が見える。この肉眼には見えないけれど、イエス様の姿を見、声を聴く…。イエス様の物語が、今、ここに息を吹き返す。福音書記者は、読む者、私たちに、イエス様を見せ、声を聴かせようとしている。福音書は、私たちに迫り、引き込む…。私たちを、イエス様の物語の証言者にしようとしている…。

 イエス様が裁かれている…。一晩中、責めと嘲りを受け、厳しく尋問され…。殺意を抱く権力者に囲まれ…。夜が明け、長老、祭司長、律法学者が、イエス様を最高議会に連れ出した。「お前がキリストなら、そうだと言え。」イエス様は答える。「わたしが言っても、あなたがたは決して信じない。わたしが尋ねても、あなたがたは決して答えない。だが今から後、人の子は力ある神の右の座に着く。」「では、お前は神の子か。」「あなたがたの言うとおり、わたしはそれです。」「どうして、これ以上の証言が必要か。私たち自身が彼の口から聞いた。」(22:66~71)

取り囲んでいた人たちは、怒り狂い、イエス様を死刑にするため、ローマ総督ピラトのもとに連れ出した。「あなたがたの言うとおり、わたしがそれです。」この言葉が引き金になった…。「わたしがそれです」「エゴー エイミ〜わたしはある」神の名、神を名乗る…。イエス様は、「わたしは神だ」と言った。「わたしがそれです」これがイエス様を十字架へと引き渡すことになった…。

 イエス様は、沈黙された…。ピラトの前で、ユダヤの領主ヘロデの前で、激しく訴えるユダヤ人たちの前で…。

「お前たちはこの人を、民衆を惑わす者として連れて来た。私がお前たちの前で取り調べたところ、訴えているような罪は何も見つからなかった。ヘロデも同様だ。見よ。この人は死に値することは何もしていない。」(14~15)ピラトは、イエス様の内に裁かれ、罰を受けるような罪を見つけることが出来ず、懲らしめた上で釈放しようとした。「その男を殺せ。〜十字架だ。十字架ににつけろ。」ピラトが何度もイエス様の釈放を宣言した。けれど、人々は益々声を上げ、遂にその声が勝った…。どうして人々は、これほどまでにイエス様を十字架につけよう願ったのか…。それは、イエス様が神の子であると言われ、神の名を語ったから…。彼らは、拒んだ。受け入れたくなかった…。イエス様が神の子、キリストであることを…。イエス様を拒む、その言葉、行いを…。イエス様を受け入れない…。神、神の子、キリスト、救い主であると…。それがイエス様を十字架につけ、いのちを奪った。

 私たちは、イエス様を拒む…。彼の言葉、彼の物語を拒む。イエス様を神の子、キリストであることを受け入れない…。愛することを止め、赦すことを拒み、裁き、復讐し…。そうやって、私たちはイエス様を十字架につける。昨日も、今日も、明日も…。「その男を殺せ。十字架だ。十字架につけろ。」私たちの中に罪がある。あの人々の中にある罪が…。この世界には、イエス様に向かって「十字架だ」と叫ぶ声が響いている。私たちは、毎日、イエス様に十字架を宣告し、釘を打ち、十字架につける…。この世界は、今日もイエス様を十字架につけようとしている…、憎しみと暴力が力を奮い、赦しと愛が沈黙に追いやられ、殺される世界…。

 イエス様は、沈黙し続ける。自分を十字架につけようとする声に反論をしない…。自分の正しさを証明しようとしない。自分が神の子であることを証明しようとしない…。一切、奇跡を行わず、力を見せない。十字架から降りることもしない。ただ、沈黙し、引いて行かれ、十字架にはりつけられる…。

 イエス様が口を開き、なさったことは、人々を心配し、赦しを祈り、救いを宣言すること。これこそが証しだった。イエス様は、沈黙していなかった。ご自身が神の子、キリストであることを証ししなかったのではない。イエス様は、証しされた。力強く、見せて下さった。誰も否定出来ない、覆い隠すことが出来ないほどに、ご自分が神の子であり、救い主であると…。イエス様は、この世界に、私たちの罪に戦いを挑まれた。沈黙し、不当に裁かれ、責められ、苦しみ、十字架につけられることで。その中で、それによって、愛、憐れみを示し、赦しを宣言し、救いの希望を語った。いのちを捨てることによって、愛を語り、愛を貫き、ご自分が神であることを証しされた。

「神は愛です」この言葉以上に、神を証しする言葉はない。「神は愛」

 イエス様は、語られた。言葉にならない言葉…。沈黙の内に、ひと息、一挙手一投足、その生き様をもって…。「神は愛、赦し。友のためにいのちを捨てる。神は、人を滅びから救う、ご自分のいのちを与え、生かす。」イエス様は、愛を語られた。ここにイエス様の愛が表されている。これは、イエス様の愛の物語。イエス様が苦しまれた物語ではなく、私たちを愛された物語。神の子、神が私たちを愛された。イエス様の沈黙、受けた苦しみ、痛み、死、それは全て、愛の言葉…。イエス様は、私たちを愛し、救われた。イエス様のいのちを与え、愛に生きる者にして下さった。

 私たちは、愛を様々なかたちで表現しようとする。愛は、愛という言葉にとどまらず、縛られることなく、それを打ち壊し、飛び越え、溢れ出し、様々なかたちになって現れる。愛は、死んだ言葉ではない。愛は、生きている。生きた行い、現実、いのち。愛は、今、ここに生きている。愛は、イエス様になり、イエス様の言葉になり、生き様になり、今日ここにうごめき、何かを起こそうとしている。愛は、出来事、物語を起こす。愛は、今日ここにある。

 イエス様が、ここに愛を証ししておられる。人は、これは愛じゃない…と言うかも知れない。しかし、神は、ここに愛があると宣言する。今日、私たちは、愛を見ている。愛を目の当たりにし、聞いている。イエス様を見た者は、愛を見た。イエス様を信じた者は、愛を信じた者。

 今、私たちの目の前に愛がある。イエス様の声が聞こえる。「わたしは、あなたを愛する」だから今日、私は、あなたに宣言する。「ここに愛が在る。イエス様が、あなたを愛している。」

 赦しなく、憎しみと暴力の闇に覆われた世界の中で、愛が勝利した。十字架の死によって、愛であるイエス様が勝利されたのです。神の子が勝利された。

 イエス様の十字架の出来事を目の当たりにした一人の兵士が神をほめたたえてこう言った。「本当にこの人は正しい人(神の子)であった」(47)

 あなたは、今日、イエス様を何と呼ぶのだろう…。

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