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イエスの風 No,54


 私たちの言葉は、周りにどんなものをもたらしているのだろうか…。ふと考える機会がありました。沢山の言葉が溢れています。けれど、残念なことに励ましの言葉を聞くことは希です。たったひと言の励ましがあれば立ち上がれるのに…。行く先が明るく見えるのに。否定的なことばかり聞かされて、一歩前に進むことは出来ません。脅されて人は心底自分を変えることは出来ません。励ましのひと言が私たちを変えるのです。そのことを、私たちは、良く分かっています。けれど、どう言う訳か、そのひと言が自分にも、人にも言えない…。どう言う訳か、この心に響いているのは、別の言葉です。

 でも、神様は、私たちに聴かせて下さいます。励ましに満ちた言葉を。神様は、いつも私たちを励まして下さいます。私たちの心を励ましで満たしたいと願って居られます。神様は、私たちを信じて、待ち続けて下さいます。どうか、今日も忍耐と励ましの神の御腕の中で憩うことが出来ますように。

 主は、こう言われます。「あなたは、わたしの愛する子。わたしは、あなたを喜ぶ。わたしは、決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。安心して行きなさい。」


ルカによる福音9章28〜36節「復活の栄光を垣間見て」

 受難節、私たちは、イエス様の御苦しみを覚え過ごす。復活祭を迎える朝まで40日間、十字架への道のりを想いながら暮らす。しかし、それは、ただ死に行く自分を憂い、暗い闇に包まれて行くような日々ではない。いたずらに、自らに苦しみを負わせ、悲劇を味わう時ではない。それは、やがて来たる朝を目指す歩み。やがて訪れる希望の光を待ち望みつつ、死の陰の谷を通るような経験…。私たちは、毎年受難節を繰り返す毎に、人生の旅路に刻みつけるのです。私の人生に希望の光が灯され、復活の朝が訪れることを。死に向かう私の人生に、いのちの希望、決して失われることのないいのちの光が輝いていることを…。

 イエス様は、その先頭を歩まれた…。私たちに先立って、その道、死の陰の谷を歩まれた。そして、復活のいのちの光をもって、私たちを導いて下さるのです。

 私たちは皆、死に向かって生きている。皆が、知らず、気付かぬ中、生まれた日から、死の宣告を身にまとって生きている。私たちは、今も死に向かっている…・。共に集まる私たちは、仲間です。同じ死の宣告を受けた者たち…。

 イエス様は、自らの死を予告された。密かに、ご自分と共に歩む弟子たちに「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」(22)と言われた…。その死の予告から八日ほど経ち、イエス様がペテロ、ヨハネ、ヤコブを連れ、祈るために山に登った時、不思議なことが起こった…。祈っている間に、イエス様の顔の様子が変わり、全身が光輝き、そばにモーセとエリヤが現れ、栄光の中でイエス様がエルサレムで遂げる最後のことを話していた…。

 本当に不思議なこと…。弟子たちは、驚いて、どう対応したら良いか分からずにいた(33)。私も、この箇所を読む度、この出来事をどう受け止めたら良いのかと悩む…。何故、イエス様は光輝いたのか、モーセとエリヤが現れて、イエス様の最後の話をしたのは何故か…。そして、驚き恐れる弟子たちに父なる神が声をかけた。「これはわたしの子、わたしの選んだ者。これに聞け」(35)ただ、ただ首をかしげるばかりです。

 弟子たちは、この出来事の意味が理解出来ず、受け止めきれず沈黙し、しばらく誰にも話さなかった…。(別の福音書では、イエス様がご自分が復活するまで沈黙を命じられたとある…)この出来事が分かるために、時が必要だった。これが分かち合われるために、まだ通るべき道があった…。

 しばし、私たちには、自分の身の回りに起こる出来事を受け止め、分かるのに時を必要とすることがある…。今、自分の身に起こっていることが、未完の出来事であったりして、受け止める時が来ていないことがあり、戸惑う…。これは一体何事か…、自分の人生に何の関わりも見出せず、これからどうなって行くのだろう…、などと思い悩んだりする。苦しいことが起こる時、そのようなことが起ころうとしている時…。私たちは、恐れ、戸惑い、倒れ込んでしまう。まるで死の宣告を受けた者のように、明日への希望を見失い、暗闇の中に放り出されたようになってしまう。

 イエス様が光輝いた、モーセ、エリヤと共に栄光の中で、ご自分の死について語り合う、天の父の声が響く…。これが起こった時、弟子たちは、何が何だか全く理解出来ず、受け止められなかった。けれど、この出来事を受け止め、語る時が来た。それは、イエス様の復活に出会った時。イエス様が死んで、よみがえられ、彼らとお会いになった時、この出来事の意味が見えた。この出来事が、彼らのために起こったことだと知った。私たちのために起こったことだと知り、語り始めた。

 イエス様は、ご自分の苦しみと死、受難を、栄光の中で見ておられた。もちろん、死に対する苦しみや恐れを感じていなかったわけではない…。けれど、その先を見ていた。イエス様は、ご自分の死を復活に向かう通過点であると見ていた。復活の光の中で、これから起ころうとする苦しみを見ていた。

 この福音書は、十字架の死の予告、イエス様の死に向かう物語で構成され続いて行く…。けれど、繰り返される死の予告の合間に、突如として入り込む光がある。天が開け、いのちの栄光が輝き出す…。死の闇を引き裂いて光が差している。まるで、厚い雲に覆われて暗くなった地上に、雲の上に輝く太陽の光が雲を割って差し込むように。イエス様の死の物語には、天の光が差している。イエス様は、十字架の死への道を、復活の栄光、聖徒と父なる神の声に導かれて進んで行かれた…。

 私たちは、死の世界に生きている。私たちへの死の宣告は、毎日のように繰り返され、私たちは幾度も聞かされる…。罪人、敗北者…のレッテルを貼られ、「お前たちの労苦は全て虚しい。お前たちの人生は、意味が無い、滅びるだけの人生…。一度失敗し、罪を犯したら、二度と立ち直ることは出来ない。お前はもう終わった…。」私たちは、死の闇に呑み込まれている。死の声に支配されている…。

 でも、十字架の死に向かう最中、イエス様は、栄光に輝き、「これはわたしの子、わたしの選んだ者」と呼ばれた。このイエス様が、私たちと共に居る。今日、私たちの人生の途上に立って、死に向かう私たちの旅路を共に歩み、やがて来る復活の光を見せて下さる。私たちの人生の先にあるもの、死の先にある世界を見せておられる。私たちの人生は、復活のある人生。

 私たちの人生の中に、死に向かう途上に復活の光、主イエスの栄光を垣間見ることが出来る。あの山で栄光に輝かれたイエス様が、あなたと共に立っている。そして、天から声が響く。「これはわたしの子。わたしの選んだ者。これに聞け。」

 イエス様に聴きなさい。栄光に輝かれた方を見なさい。私たちは、何度死の宣告を受けようとも、イエス様を見上げることが出来る。私たちは、この人生に失望することはない。むしろ、希望に堅く立ち歩むよう招かれている。人生を死に支配させてはならない。むしろ、いのちに、いのちの源である神の御子に、あなたを委ね、支配していただこう。いのちの源であり、死からよみがえられたイエス様。

 私たちの苦しみは、復活に向かう苦しみ。生みの苦しみ、新しい命に生きる苦しみ。私たちは、苦しみや死を避けられない。しかし、絶望しないで欲しい。それでも生きる理由がある。イエス様は、あなたを、そのような中で神のいのちに生かそうとして、ご自分を死に渡し、よみがえられたのです。


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