もう五月も終わりますね。あっと言う間に六月になり、梅雨を迎えそうです。五月は、旅続きでした。月の半分を愛知県で過ごしました。沢山の出会い、新しい発見の日々に感謝です。新しい出発をして一年が経とうとしています。良くここまで歩んで来れたと思います。沢山の友だち、仲間に支えられて来ました。そして、イエス様に導かれ、守られて来ました。今までの歩みを振り返って心からこう言うことが出来ます。「確かにイエスの風は吹いています!!」先のことを考えると、不安になることも色々ありますが、目には見えませんが共に居て下さる御方に信頼して、この風に吹かれ、導かれて行きたいと願っています。これからもよろしくお願いします。
主イエス・キリストが共におられます。「あなたは、わたしの愛する子。わたしは、あなたを喜ぶ。わたしは、決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。安心して行きなさい。」
マタイの福音書28章16~20節「新しい季節が始まっています」
新しい季節が始まっています…。辺りを見回すと、木々に新緑が色づき、日の光に輝いています。この季節特有の爽やかな風が吹き、空を見上げれば優しい雲が流れていて、心を和ませ、解放してくれます。何かが始まっていると言う期待感が湧いてくるようです…。新しい季節が始まったのです…。
でも、私たちは、そのような新しさには目を留めず、古い物を見つめています。今日は、昨日と同じ…、何一つ新しくなっていない…。苦しいことに心奪われて、うつむいています。生きていると色んな事が起こります。確かに苦しいことが沢山在って、問題が次から次へとやって来て、息つく暇もありません…。そして、こう言うのです。「いつかは、何もかも終わってしまうのだ…。全ては虚しく朽ちて行く。だから、何をやっても無駄ではないか…。」今日も、虚しい繰り返しの一日になるのだろうと決め込んで、期待することを忘れてしまっている…。
人間は不思議です。この世界に生きていながら、この世界とは別の世界を持っているかのように生きることが出来る…。新しい季節が始まっていても、ずっと変わらずに、古い季節のままに生きることがある。古いままに生きようとするのです。
今、新しい時代が始まっている…。この世界は新しい時代を迎え、日々新しくなろうとしている。聖霊が降り、イエス様の教会が生まれた…、それは新しい時代の始まりを告げる出来事です。「古いものは過ぎ去って、見よ、全ては新しくなった。」(2コリント5:17)全てが新しくなろうとしている…。それは同時に、古く過ぎ去って行くものがあると言うことでもある。私たちは、古く過ぎ去るものに目を奪われてしまい、まるで何も変わっていないような、むしろ悪くなって、滅んで行くように感じて失望してしまうのです。
イエス様は、死を打ち破り、よみがえられました。古いものを打ち壊し、全てを新しく始められました。その日以来、新しい時代が始まったのです。そして、弟子たちを集めてこう言われた。「わたしは天においても、地においても、いっさいの権威が与えられている。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の御名によりバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じたすべてを守るように教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいる。」(18~20)
イエス様は、彼らを呼び寄せ、新しい時代の生き方を示されました。その生き方に倣うようにと教えて下さった。そして、この新しい生き方が人々の間に広まって行くようにと、彼らを遣わされたのです。イエス様の弟子として生きること、イエス様の生き方に倣って生きること…。互いに愛し合うこと。愛に生きること…。「わたしの命じたすべてのことを守るように…」それは、徹底的に愛に生きること、愛を貫くこと…。主イエス様のように。
「わたしは新しい戒めを与える。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13:34)これが新しい時代の生き方、新しい世界を創りだす生き方だと言われた。そして、それを弟子たちにお委ねになった。イエス様は、弟子たちが新しい時代、新しい世界を創るように願われた。弟子たちを世界に遣わされたのです。イエス様は、ご自分だけで、ご自分の手でそれを創ろうとはなさらなかった。弟子たちに委ねた。弟子たちから始めようとされた…。弟子たちから始まって、今日、私たちの手に委ねられている。イエス様は、私たちに使命をお与えになった。新しい戒め、新しい時代、新しい世界に生きる使命。「愛の力、愛の贖う力を私たちは見出すべきだ。そうするとき、私たちはこの旧き世界を新しき世界にする。愛こそが唯一の道だからだ。」(マーティン・ルーサー・キング)イエス様の弟子として生きる。互いに愛し合う、愛する道、愛を貫くこと…を弟子たちに任された。どうしてなのか…。それは、この世界、この私たちのいのちが、イエス様のものであり、同時に私たち自身のものだから。他人任せ、神様任せに出来ないものだから…。
イエス様は、私たちに呼びかけられた。「共に新しく生きよう。そして、この世界を新しくしよう。」イエス様は、あなたが愛する道、愛を貫くことを命じておられる。あなたが新しい時代を生き、旧いものを過ぎ去らせ、世界を新しくするように呼びかけている。あなたがイエス様の弟子となって生きる時、その弟子の生き方が伝わり、広まって行く中で、旧い世界は滅び、新しい世界が生まれている…。
旧い世界は滅びて行きます。その中で新しい世界が生まれている。旧い生き方は終わる。新しい生き方に変わる。でも、それは忍耐を必要とし、生みの苦しみを通らなければならない…。私たちは、愛に生きようとする時、それを貫こうとする時、たくさん傷つき、挫折や壁にぶつかる。失望するような現実、闇を目の当たりにする。全ての労苦が無駄に終わるのではないかと思うような出来事に翻弄される…。愛に目覚め、愛に生きようとすればするほど…。
イエス様は、それを知っておられた。だから、こう言われた。「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともに居る。」イエス様は、言われた。「見よ」一体何を見るのか…。「世の終わり」旧い世界は過ぎ去り、必ず終わりを告げる。この世の罪、苦しみ、不条理、悪…。それには終わりがある。必ず滅びる…。だから、どんなに罪が重くのし掛かり、苦しみが増し、不条理に涙し、悪が圧倒的な力で支配しようとしていても、それは終わる。新しい世界に取って替わる。世の終わりは、新しい世界の始まりなのです。
「見よ」一体何を見るのか…。「わたしはいつも、あなたがたとともに居る。」イエス様は、今日、共に居る。世の終わりの苦しみや混乱の中にも共にいる。罪、苦しみ、不条理、悪の只中に、そこにこそ共に居る。イエス様の方から、近づいて来られ、そこに居て下さる。主イエス様が近づき、共に居ることこそが「救い」。「主の臨在(御顔)こそ、わたしの救い」(詩篇42:6)
イエス様は、今日、ここに、あなたと共に居て下さる。どんなに罪が増し、苦しみの嵐が吹き荒れ、不条理の波が押し寄せ、悪の闇に覆われていても…。世界が完全に新しくなるまで、新しい世界の光が差し、照らすまで、ひとときも離れず、共に居て下さる。イエス様は、目に見えぬ聖霊によって、私たちの内に住まれるようになった。「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたと共に居る。」このみことばは成就した。私たちは、今日、イエス様の励ましの声が響く、新しい時代に生きているのです。
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