イエスの風 No,37



 昨日は、古い友だちが遊びに来てくれました。中高生時代に出会い、それ以来の友だちです。その頃に戻って話がはずみました。私のカナダの友人が、よく私のことを「古い友だち」と呼んでくれます。英語では、「Old friend 」。それは「親友」と言う意味だそうです。私は、「親友」と言うと、何だか身構えてしまい、気軽に使えなくなってしまいます。けれど、「古い友だち」と呼ぶと、古くから知っていて、友情を育んで来た人たち、そんな感じで、自分にはしっくり来ます。年月を重ね、友情を育んで来た人たちに囲まれて生きることが出来るのは幸せなことです。また、そうやって、生涯をかけて友情を育んで行きたいと思う人たちに出会い続けて行きたいのです。

 今日、あなたに「Old friend」が共にいて下さいます。

「わたしはあなたを友と呼ぶ」(ヨハネ15:15)

 主イエスの愛が、あなたを包みますように。主がこう言われます。「あなたは、わたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。わたしは決してあなたを離れず、またあなたを捨てない。安心して行きなさい。」

 あなたは祝福された人!!


ルカの福音書24章33~48節「イエス様は今日、あなたと共に生きている」


 聖書の難しい所…それは、私たちの理解を越えた、不可解な出来事が記されていること。こんなことが書いてあるから、信じることが難しくなる…。もっと信じやすいこと、理解出来ること、納得出来ることが書かれていたら信じられるのに…。そう言って、過去の歴史において、聖書の中の信じ難い出来事を省き、事実ではないとし、信じる必要がないこととしようとした。けれど、もし、聖書の中にある信じ難い出来事を省き、信じる必要のないことにしたらどうなってしまうのか…。聖書の中に、信じなければならないことが何一つなくなってしまう。聖書は、もはや信じるに価しない書物になってしまう…。私たちが理解出来ること、説明を尽くすことが出来るもの…、それは信じるか否かを問う必要のないものです。


 私たち人間は、信じ難いもの、理解を越えたことに出会って、初めて信じるか否かを問われる。そのような出来事が、私たちに迫り、信仰を求めるのです。信仰を問われると言うことは、人間にとって、人間が人間で在るために大切なことだと思うのです。


 イエス様がよみがえられて、弟子たちに姿を現された…、何とも不可解な出来事です。十字架につけられて死んでしまった御方が、墓に納められて三日もたって、よみがえった。その姿を現された…。その日、弟子たちの中で騒ぎになっていました。次々に、よみがえられたイエス様を見たという仲間が集まって来た(33~35)。中には、見ていないと言う人たちもいたでしょう。集まって、見たという人たちの話を聞いていたのです。けれど、なかなか信じることが出来ない…。それは当たり前です。見ていないのですから。すると、その真ん中にイエス様が突然とお立ちになった(36)。けれど、弟子たちは、それを見てもすぐには信じられなかった(37)。


 見ても信じられない…のです。人は、見れば信じる…と言うものではない。見ても信じることが出来ない…、自分の中で有り得ないと思っていることは信じることが出来なかったりするようです。イエス様はおっしゃいました。「なぜ取り乱しているのか。どうして心に疑いを起こすのか…」(38)そして、さらに「わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。」イエス様は、ご自分が幻でも何でもなく、今、ここに居る、確かな存在としてご自身をお示しになったのです。けれど、それでも弟子たちの中には、訳が分からず、舞い上がってしまい。信じ難い気持ちになってイエス様を見つめていた(41)。イエス様は、「何か食べ物があるか」と尋ねられ、弟子たちが差し出した焼いた魚を一切れ食べてしまわれた(41~43)。イエス様は、出血大サービス…。どうしてこんなことをなさったのでしょう。イエス様は、あの手この手と…、何とかしてご自分がよみがえって、今ここに生きて居ることを示そうとされた。弟子たちが、信じることが出来るように…、ご自分がここに居ることを示された。イエス様は、ご自分がよみがえられたことを、彼らにハッキリと示した。ボンヤリと霊においてとか、幻のように示されたのではなかった。「今、ここに居る…」イエス様は、以前、弟子たちと共に居て生活し、歩まれたのと同じように、彼らの目の前に居て、生き、共に食し、生活をしていることを示された。イエス様は、今ここに居る。彼らの目の前に居て、語りかけ、触れ合い、食事をされた…(39、43)。


 イエス様は、よみがえられ、今も生きている。「今、ここに居る…」イエス様は、それを彼らに示された。説明するのではなく。示された。彼らに納得させようとではなく、信じさせようとされた。そのため、彼らの心を開かれた(45)。弟子たちは、どうしてイエス様のよみがえりを信じることが出来たのか。それは、彼らが見ただけでなく、イエス様が彼らの心を開き、悟らせて下さったから。信じた。それを現実として受け止めることが出来るようになった。


 イエス様は、私たちを信じさせようとする。信じさせようと、ご自身を現し、見せられるだけでなく、心を開き、悟らせようとされる。信仰は、神様からの賜物。私たち人間の力によらず、イエス様が、私たちの心を開き、悟らせ、信じさせて下さる。信仰は、神秘そのもの。信仰は、人間を神様の霊の息吹によって生かすいのち。人を真に人として生かすいのちです。信仰は、私たちの望みである以上に、神様の願いであり、迫りの中で生まれるものなのです。


 今日、イエス様は、私たちを信じさせようとされる…。彼らの目の前に現れて下さったように、私たちと共に居て、語り、食される…。イエス様は、私たちと共に居て、一緒に生きて下さる。「インマヌエル…神が共におられる。」それが救い。聖書が私たちに説き、与えようとしている救い。神様が、イエス様を通して、私たちにもたらし、成就して下さった救い。神様と共に生きること。日常が変わる。神様と共に生きる日々に…。よみがえられたイエス様と一緒に生活をする。イエス様と一緒に暮らしている。イエス様を見て、語り、食し、歩き、働く…。これが救い。神の国の生活。罪の赦し、悔い改めとは何か…。それは、神の国に生きること。神様と共に生きる、神様と語らい、食し、歩き、働くこと。イエス様を通して、それが現実になった。私たちの日常が、神の国になるのです。


 イエス様は、よみがえられた。私たちの目の前に現れ、共に語り、食し、歩き、働かれる…。私たちは、今ここに、イエス様が居ることを信じることが出来る。イエス様は、信じるようにと、多くの証人の証言によって迫る。「あなたがたは、これらのことの証人です。」(48)今日、ここに開く福音書に、よみがえられたイエス様に選ばれた証人たちの証言が溢れている。彼らの証言が、聖書から溢れ出し、洪水のように押し寄せて来る。イエス様が、彼らの言葉によって迫る。


 「わたしは、よみがえり、今日、あなたと共に生きて居る。あなたと一緒に語り、食し、歩き、働く。わたしは、あなたの心を開く。あなたも、わたしの証人だ。」


 証人とは、イエス様と共に生きる人。イエス様は、証人と呼ばれる人と共に生き、その人を通してご自分を現そうとしている。イエス様は、今日、あなたと共に生きている。イエス様は、あなたと語る、一緒に食し、歩き、働く。イエス様は、今ここに居る。あなたの日常、あなたの言葉に耳を傾け、見守り、手の業の中に居て、食卓を共にし、あなたの出来事を共に味わい、心の動きに寄り添い…。もう数え挙げることが出来ないほどに、あなたの日々は、よみがえりの主イエス様と共に生きる日々。神の国の日常。


 イエス様は、あの時、イエス様と出会い、語り、食した弟子たちが経験したように、今日もあなたと共に生きている。そして、こう言われる。

 「あなたがたは、これらのことの証人です。」

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