検索

イエスの風 No,35


 主はよみがえられました!!イエス・キリストの御復活を心からお祝いします。イエス様が復活されたことは、クリスチャンが信じていることの中で一番大切なことだと思っています。私は、クリスチャンになってからも、しばらくはイエス様が復活されたことをそれほど大切なことだと思っていませんでした。イエス様は、遠い所におられる方のように感じていましたし、それでも構いませんでした。イエス様は、私の罪の身代わりに十字架で死んで下さった、私の罪は全て赦されて天国に行けるようになった…、それで十分満足だったのです。けれど、クリスチャンとして生きる年月を重ねる内に、段々と魂の深い所に渇きを覚えるようになったのです。上手く言葉で説明出来ないのですが…。罪赦されて、天国に行けるようになる…それも大切で素晴らしいことですが、それだけ?って思うようになっていたのです。それだけを持って生きていても…、魂が渇くのです。私の存在の深い所が満たされていないのです。段々と深い魂の渇きに気付くようになったのです。罪の赦しと、天国行きの切符を手にしていても、それじゃぁ魂が渇くのです。もっと大事な、神に造られた、神のかたちに創造された人間としての私の存在が叫び求めるものがあったのです。ある時に読んだ、ヘンリー・ナウェンと言う人の書いた「イエスの御名で」(あめんどう出版)の中に記された彼の問いかけが心に響いて来たのです。「五十歳代に入り、自分の人生にはもう過去と同じだけの時間は残されていないと気づいて、次のような単純な問いに直面するようになったのです。『年を重ねて、私はよりイエスに近づいただろうか?』」(P20)私の魂、存在の渇きの叫びを聞いたような気がして、それ以来、私の心に響き続けている言葉です。「私はよりイエスに近づいただろうか?」私が求めるのは、イエスと出会うことであり、このイエスに似る者となって生きること…。神のかたちに創造された私の人間性が、それを恋い慕い、渇き求めているのです。誤解を招くことを覚悟で言いますが、私は罪の赦しと天国行きの切符よりも、イエスと出会うことを願い、イエスに似る者となることを求め、飢え渇くのです。このことに気付いて以来、私の人生、いのちの軸が決まりました。「イエスと出会い、イエスに似る者となる」これが私のいのち、今日生きる理由、神のかたちに創造された私の存在意義です。そして、このことと復活は大きく関わり、繋がっているのだと思うのです。それで、私にとって復活を祝うこの時期が、イエス様の御復活が、他の何よりも大切なことだと思うようになったのです。イエス様の御復活は、私たちのいのち、喜び、今日を生きる理由。私たちは、今日もこう言うことが出来ます。「キリストが私の内に生きているっ!!」

 キリストがあなたがたの内に豊かに満ち溢れますように。主がこう言われます。「あなたは、わたしの愛する子。わたしは、あなたを喜ぶ。わたしは決して、あなたを離れず、また、あなたを捨てない。安心して行きなさい。」復活された主イエス様が、今日もあなたと共に行かれます。あなたは、祝福された人です!アーメン!!


マルコの福音16章1~8節「あの方はよみがえられた…」


 いのちのある者は、必ず新しい朝を迎えることが出来ます。新しい一日を始めることが出来る。何度でも、新しい日を生き始めることが出来る。昨日と今日は違う一日…、私たちは、知らぬ間に今日は、昨日と同じだと思い込んでいる。今日は、昨日の続きだと信じている…。そうして、過去の失敗や過ちに縛られて、自信なく、諦めて、死んだように生きている…。しかし、そうではない。今日は、新しい日。古いものは過ぎ去って、見よ、すべては新しくなったのです。

 庭に植えた木、鉢に植えた植物は、知らぬ間に新しいいのちを芽吹かせています。小さな変化なので、気付かれないままに、ある日突然芽吹いたかのように私たちを驚かせます。けれど、そこにはいのちがある。そのいのちが、日々新しく芽吹かせ続けて来た。いのちある者は、昨日と同じだと言うことは有り得ない。今日、新しいいのちに生きている。いのちある者は、昨日と同じ場所には居ないのです。

「あの方はよみがえられました。ここにはおられません。」(6)

 イエス様を墓に葬って三日目の早朝…。安息日が明けて、イエス様に付き従っていた女性たちが、墓に向かいました。イエス様の葬りの続きをしよう…、大切なイエス様のご遺体に香油を塗ろうと…。墓の入り口の大きな岩をどのようにして動かそうか…などと話をしながら…。

 そこで声を聞いた…。墓の入り口の岩が、すでに転がしてあった。墓の中に、真っ白い長い衣を着た青年が座り、こう言った。

「驚いてはいけません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められた所です。ですから行って、お弟子たちとペテロに、『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます。』とそう言いなさい。」(6,7)

 女性たちは驚いた…。つい二日前、イエス様は、彼女たちの目の前で死んだのです。十字架の上で息を引き取り、それを取り降ろし、布で包んで、この墓の中に納めるのを見た(15:47)。だから、香油を持って来たのです。イエス様の亡骸に香油を塗って、丁重に葬ろう、そうやって、イエス様に愛を表したい…と思った。なのに、「ここにはおられません」と言われた…。

 イエス様が居ない…。居るだろうと思っていた身体が、跡形もなく消えてしまった…。そして、不思議なことを聞かされた…。目の当たりにした現実と聞かされた知らせ、このギャップの中、彼女たちは、どうしたら良いか分からなくなってしまった…。「女たちは、墓を出て、そこから逃げ去った。すっかり震え上がって、気も転倒していたからである。そしてだれにも何の言わなかった。恐ろしかったからである。」(8)彼女たちは、驚いて、恐くなって、逃げ出した…。そして、弟子たちに託された知らせを伝えるどころか、黙ってしまった…。どうして恐ろしくなったのか…。何故、黙ってしまったのか…。彼女たちは、まだ、イエス様に会っていなかった。見たのは、空の墓だけ…。ただ、「よみがえられた」という言葉だけを聞いた…。彼女たちにとって、それは、信じられないこと、恐ろしいことでしかなかった…。

 そして、マルコの福音書は、ここで終わってしまいます。あまりに唐突で、中途半端…終わったとは思えない終わり方です。それ故、後になって追加文が加えられた…(9節以降の追加文)。終わっていない結末…。ここにマルコのメッセージがあります。終わっていない結末…、誰もよみがえられた主イエス様にお会いしていない…。「あの方はよみがえられました。ここにはおられません。」と言う知らせだけが聞こえ、「あなたがたより先にガリラヤに行く。そこで会おう。」とイエス様からの伝言だけが響く。一体どうなったのか…、イエス様は…、女性たち、弟子たちは…、この後、何が起こったのか…。

2000年を経た今、私たちは、どうなったのかが知らされています。イエス様は、よみがえられた。そして、お会いになった。イエス様は、恐れ、逃げ出し、黙り込んでしまった女性たち、イエス様を捨てた弟子たちにお会いになった…。そして、彼らの人生が新しく始まった。イエス様のいのちに与り、新しく生きる人生が…。それ故、マルコは「神の子イエス・キリストの福音のはじめ。」(1:1)と福音書を書き始めた。けれど、マルコがこの結末で伝えようとしたことは、イエス様がよみがえられたことが事実であったと言う、過去の話しではない…。マルコが伝えようとしたこと、それは、よみがえられたイエス様に会った弟子たち、女性たち、皆が共に伝えようとしたこと。「イエスは、あなたがたより先にガリラヤに行かれます。そこでお会いできます。」(7)

「イエスが、先にガリラヤに行って、あなたがたにお会いになる。」今日、神様は、あなたをイエス様に会わせようとしている…。イエス様が会おうと言っておられる…。「イエス様は、先にガリラヤに行って、そこであなたにお会いになる。」「先にガリラヤに…」、「ガリラヤ」とは何処か。弟子たちにとって「ガリラヤ」は、彼らの慣れ親しんだ場所、日常。あなたの慣れ親しんだ場所、日常、家、あの部屋…、それがあなたの「ガリラヤ」。イエス様は、あなたより先に、そこに行かれる。そこにおられる。そこで、あなたとお会いになる。

 私たちは、知らぬ間にイエス様を過去に葬ろうとしている。過去の出来事の中に、聖書の中、教会の中に閉じ込めようとしている。十字架の上に、墓の中に留めておこうとしている。けれど、イエス様は、そこにはおられない。イエス様は、今ここにいる。イエス様は、よみがえられて、自由に歩き回っておられ、私たちがびっくりするような、信じられないようなことをなさいます。イエス様は生きておられます。

 信じられないようなことでしょう…。イエス様が「よみがえられた」と言うことは、「イエス様は今、ここにおられる」と言うことです。「私の帰る家に、先立ってイエス様がおられる。私は今日、イエス様とお会し、イエス様と共に人生を生きている。」と言うことです。イエス様は、今日あなたと共におられます。イエス様は、あなたのいのちとなって、あなたと共に、あなたの中に生きておられます。あなたの人生は、新しく始まっています。完結しない福音書、終わりのない復活の物語となって…。あなたの中には、いのちがある。だから、何度でも新しく生きることが出来る。失敗しても生き直すことが出来る。何度でも新しい朝を迎えることが出来るのです。

 今日、イエス様にお会いしましょう。イエス様にお会いすると言うことは、イエス様を信じること。イエス様に祈ること。

0回の閲覧