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イエスの風 No,34


 今週、私たちは受難週を迎えています。イエス様が、私たちの罪を背負い、苦しみの道を辿られたことを想い起こし過ごす一週間となります。けれど、ただ苦しみを想い起こすのではありません。イエス様が苦しまれたのは、私たちを愛するが故であったと言うことを忘れてはならないのです。イエス様の十字架への道で味わわれた苦悩は、愛するが故の苦悩でした。愛することは、時に苦しみ、悩むことを伴います。私たちも誰かのために心を痛め、苦悩することがあります。それは、愛する故の痛みであり、苦悩なのです。

 今週も愛を忘れないで過ごしたいのです。

 キリストの愛が、あなたがたの内に満ち溢れますように。主がこう言われます。「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。安心して行きなさい。」祝福があるように。


ヨハネの福音12章20~33節「一粒の麦と永遠のいのち」


「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」(24)

 イエス様の言葉は、何だか不思議な力を持っています。私たちの心の深い所にぐっと来る…。時に染み込み、癒す。時には、鋭く迫り、突き刺さる…。ヨハネは、彼のことを「神の言葉」と呼んだのも分かるような気がします。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。」イエス様が、本当に良く聞いて欲しいと言う願いを込めてお語りなったのです。イエス様は、死期を悟っておられました。いよいよ迫る十字架の死を意識してお話しになったのです。

 全ての人と言うわけには行かないと思いますが、人は死期を悟ると、何かに目覚めるとでも言うのでしょうか、鋭くなる…。本人がどこまで意識していたのかは分かりませんが、今まで言わなかったようなことを言ったり、周りの者たちに置き土産でもするかのように、印象深い何か、言葉や出来事を残すことがあります。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもしちに落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。」

 イエス様は、ご自分の死を悟っておられました。何故、どのようにして、何のために、死ぬのか…。それを悟ることが出来る人は希です。しかし、イエス様は知っておられた…。そして、その死を一粒の麦に重ねてお話しになったのです。イエス様は、自分を一粒の麦だと言われた。イエス様は、ご自分の死を、一粒の麦が地に落ちて死ぬことだと…。けれど、その死は豊かな実を結ぶ…。無駄死にではないと言われる。無駄死にどころか、豊かな実を結ぶと…。

 私たちは、死は全ての終わりだと思っています。死は、全てを失うことだと…。何もかも手放して、何も残らない…。私たちは、失うことを恐れる。その両手に、しっかりと握りしめているものがある…。死を意識すると、それが分かって来る。自分が何を握りしめているか…。そして、手放すことが恐いのです。

 そのような恐れ、失うことの恐れ、死の恐怖をイエス様も感じておられたようです。「今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からわたしをお救い下さい。』と言おうか。」(27)死ぬこと、失うこと、それを恐れることが悪いことではない。それは、いのちある者、生きる者が感じる自然なこと…。むしろ、死こそ、失うことこそ不自然なこと…。人は、神様抜きにこの世界のことを考え、生きるようになって以来、自らの内に、この世界に死を招き入れてしまい、死に支配されて生きるようになってしまったのです。

 死は、いのちに反する。いのちを蔑ろにし、意味のないものにしようとする。生きている者を恐れで縛り付け、今日を生きる勇気と力を奪おうとする…。死の恐れ、失う恐れに縛られていると、生きているのに死んだ者のようになってしまう。いのちの使い方を見失ってしまうのです。

 いのちは、使うもの…。握りしめるものではなく、保ち、守るものではなく、蒔くもの、使うものです。誰かのために…。

 イエス様は、ご自分を、ご自分のいのちを「一粒の麦」と言われた。その一粒の麦が地に落ちて死ねば豊かな実を結ぶと言われた。イエス様の死は、私たちが考える、死とは違う…。死んで全てが終わる…、全てを失い、何もかもが虚しくなると言うものではない…。イエス様の言われた死は、一粒の麦が地に落ちて死に豊かな実を結ぶ…、豊かないのちの実りをもたらすもの。イエス様の死は、自分だけを生かすことではなく、自分以外の誰かにいのちを与え、生かすこと…。それは、もはや死でありながら、死ではない…。

 イエス様の死は、愛。愛すると言うこと。「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。」(1ヨハネ3:16)イエス様は、愛された。死をもって、愛された。死さえも、愛するために用いられ、死をもって、人にいのちをお与えになり、愛をあらわされた。

 イエス様の死は、一粒の麦の死。そして、そこから豊かな実りが生まれた。それは、永遠のいのちの実…。一粒の麦の死から生まれた豊かな永遠のいのちの実り。今日、ここに居るあなたたち。あなたは、イエス様の豊かな実、一粒の麦からの永遠のいのちの実り…。あなたは、一粒の麦が地に落ちて死んだ時から始まり、脈々と続いている永遠のいのちの実りの結実。

 だからこう言うことが出来る。「ここにいるあなたは、永遠のいのちの実。あなたの内に、一粒の麦が見える。」そうです。あなたは今、「一粒の麦」。主イエス様にあって、イエス様がいのちがけで救い出して下さった「一粒の麦」。イエス様のいのちを受け継ぎ、「一粒の麦」になっている。イエス様を信じること、イエス様の弟子になると言うことは、永遠のいのちに生きること。そして、それは遠い未来、遙か彼方の国にあることではなく、今日ここで、あなたが生きるその場所で、「一粒の麦」になって生きること。地に落ちて死ぬこと。愛に生きること。だから、イエス様は、こう言われるのです。「わたしに仕えるというなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いて下さいます。」(26)

 誰かを愛することは、「一粒の麦」になって地に落ちて死ぬこと。私たちは、毎日、日常の中で、この肉体において死ぬことがなくても、誰かを愛することで、自分に死ぬと言う、小さな死を重ねている。それは、どんなに小さい行為であったとしても、「一粒の麦の死、永遠のいのちの営み」。イエス様は、あなたの小さな行いを見て、「一粒の麦の死は、豊かな実を結ぶ。永遠のいのちに至る。」と言われる。一粒の麦は、自分の死を通しての豊かな実を見ることはないかも知れない…。けれど、信じて生きることが出来る。「私は一粒の麦の実、永遠のいのちの実だ。」そして、天から父なる神様の声が、あなたに向かって聞こえる。「わたしは栄光をすでに現したし、またもう一度栄光を現そう。」(28)

 主イエス様は、今日言われます。「あなたたちは、わたしの尊い一粒の麦、永遠のいのち。」

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